結成しただけでは、政党政治は完成しなかった
立憲政友会は衆議院の多数と政府を結びました。しかし、大日本帝国憲法下の政治は衆議院だけで決まりません。結成直後の第4次伊藤博文内閣は、その現実に直面します。
政府が酒税・砂糖税・関税などの増税案を提出すると、衆議院は通過したものの、貴族院が反対しました。貴族院は政府寄りの議員が多いとされますが、解散がなく、政府や衆議院から独立した強い院でもありました。
伊藤は演説や元老の調停で妥協を探りましたが、最終的には明治天皇の詔勅を受けて貴族院が賛成へ転じます。衆議院の多数を得ただけでは、政策を自由に実行できないことが示されました。
その後も財政方針をめぐる閣内対立が続き、第4次伊藤内閣は1901年6月に総辞職します。政友会を作れば政治が安定するというほど、現実は単純ではありませんでした。
伊藤から西園寺へ――政友会は一人の党を越えられるか
1903年、伊藤博文は政友会総裁を退き、西園寺公望が第2代総裁になりました。創設者が退いた後も組織が続くことは、政友会が伊藤個人の集まりから継続的な政党へ進むための試練でした。
西園寺は公家出身でフランス留学を経験し、若いころには中江兆民らと『東洋自由新聞』を創刊した人物です。伊藤の憲法調査にも随行し、官僚と自由民権の両方に接点を持っていました。
政友会の実務と地方組織を支えたのが原敬です。原は官僚・新聞記者の経験を持ち、1902年から衆議院議員を務めました。西園寺を総裁として支えながら、選挙区と党本部、議員と政府を結ぶ政治を進めます。
| 人物 | 政友会で担った役割 |
|---|---|
| 伊藤博文 | 官僚出身者と旧憲政党を結び、初代総裁として政党の枠組みを作った |
| 西園寺公望 | 第2代総裁。二度首相となり、政友会を政権担当政党として維持した |
| 原敬 | 地方組織と議会運営を支え、第3代総裁、のち首相となった |
政友会は地方と中央をどう結んだのか
政友会の力は、東京の国会議員だけにあったわけではありません。会則が地方支部を重視したように、各地の政治家、有力者、商工業者、地主などと結びつき、選挙と政策の基盤を広げました。
地方の支持を得るには、中央政治の理念だけでなく、鉄道、道路、港湾、河川、学校など、地域の生活や産業に関わる事業へ予算を配分することが重要でした。政友会はこうした積極的な公共事業を通じて、政府の政策と地域の要求を結びつけていきます。
この政治には二つの面があります。交通や教育の整備は地域の発展を支えました。一方、支持を得るため特定地域へ事業を誘導する政治、党と行政の結びつき、選挙をめぐる利益配分という問題も生みました。
政友会が広げたのは、理念だけを競う政党政治ではありません。地域の要望を集め、予算と事業に変え、その実績を次の選挙につなげる、現実的な政党政治でした。
桂園時代に政友会はどんな役割を果たしたのか
1901年以降、軍・官僚・貴族院に基盤を持つ桂太郎と、衆議院の政友会を率いる西園寺公望が交互に首相を務める時期が続きます。これが桂園時代です。
桂と西園寺が、現代の二大政党の党首として選挙で競ったわけではありません。桂は政友会と協力しなければ衆議院で予算を通しにくく、政友会も政府と協力することで政策と地域事業を実現できます。対立する政治基盤が、必要に応じて妥協する関係でした。
1906年に成立した第1次西園寺内閣では、原敬が内務大臣に就任し、鉄道国有化などが進められました。政友会は、議会で意見を述べるだけの政党から、政府のなかで予算と行政を動かす政党へ変わっていきます。
ただし、首相を決めるうえでは元老の意向が強く、軍部は軍部大臣の人事を通じて内閣へ影響を与え、貴族院も独立した力を持っていました。桂園時代は政党政治の完成ではなく、藩閥・官僚政治と政党政治が接近した過渡期です。
1918年、原敬内閣で何が変わったのか
1914年、西園寺が総裁を退くと原敬が第3代総裁になりました。そして1918年、米騒動後に寺内正毅内閣が退陣すると、原へ組閣の命が下ります。
原敬内閣は、外務・陸軍・海軍大臣を除く閣僚を政友会員で構成し、初の本格的な政党内閣と評価されています。原は爵位を持たず、衆議院議員である最初の首相でもありました。
立憲政友会の結成から18年。伊藤が作った政府と議会を結ぶ政党は、西園寺と原のもとで地方組織を広げ、ついに衆議院の政党が内閣の中心を担う段階へ進みました。
つまり、1900年9月15日は政党政治が一日で完成した日ではありません。政党が政権を担うための組織が生まれ、その後の18年間で実際の政権担当能力を蓄えていく出発点だったのです。
政友会の歴史はなぜ1940年に終わったのか
原敬の死後も、政友会は高橋是清、田中義一、犬養毅らのもとで政権を担いました。大正末から昭和初期には、憲政会を前身とする立憲民政党と並ぶ二大政党の一つになります。
しかし、1932年の五・一五事件で犬養首相が暗殺されると、本格的な政党内閣は途絶えました。政友会内部でも対立と分裂が進みます。
1940年、日中戦争の長期化と第二次世界大戦による国際情勢の緊迫のなか、近衛文麿を中心とする新体制運動が進みました。政友会の各派を含む既成政党は次々に解党し、大政翼賛会が成立します。
政党が政府を支え、ときに政府を批判し、選挙で政権を競う仕組みは後退しました。1900年に始まった政友会の歴史は、戦時体制のなかで幕を閉じたのです。
立憲政友会が日本政治に残したもの
立憲政友会以前にも、自由党、立憲改進党、憲政党など多くの政党がありました。政友会の新しさは、政党を初めて作ったことではなく、政府と衆議院、官僚と地方組織を結び、政権を継続して担う仕組みを育てたことにあります。
伊藤博文は組織の枠組みを作り、西園寺公望は政権担当政党として維持し、原敬は地方と議会の基盤を広げて本格的な政党内閣へつなげました。三人は同じ役割を担ったのではなく、異なる段階で政友会を育てたのです。
同時に、政友会の政治には限界もありました。選挙権は長く一部の男性に限られ、元老・軍部・貴族院の力が残り、公共事業と党勢拡張の結びつきは利益誘導や腐敗への批判も招きました。
立憲政友会とは、民主政治の完成形ではありません。政府と議会が対立するだけだった時代から、政党が人材・政策・地方の支持を組織し、政権の責任を担う時代へ進むための中心となった政党でした。
政友会の前後を、さらに読む
帝国議会の対立から政友会の結成へ、そして桂園時代と原敬内閣へ。読む順番が分かる関連記事をまとめました。
主な参考資料
- 大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、138〜142頁、181〜188頁、202〜203頁、234〜240頁
- 国立国会図書館「2-19 立憲政友会の成立」
- 国立国会図書館「立憲政友会会則草案」
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代 第2章 明治国家の展開」
- 国立国会図書館「貴族院と日記――明治期を中心に」
- 国立国会図書館「西園寺公望|近代日本人の肖像」
- 国立国会図書館「原敬|近代日本人の肖像」
- 国立国会図書館「3-8 平民宰相」
- 国立国会図書館「4-11 近衛新党」

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