1906年1月、日露戦争を終えた桂太郎は首相を退き、西園寺公望へ政権を引き渡しました。
しかし、これは総選挙で与党が入れ替わった結果ではありません。軍・官僚・貴族院に強い桂と、衆議院の立憲政友会を率いる西園寺が、議会と政府を動かすために調整した政権交代でした。
対立する二つの勢力は、なぜ政権を譲り合ったのでしょうか。そこには、どちらか一方だけでは法律も予算も動かせなくなった明治国家の現実がありました。


桂園時代をひとことで表すと
桂園時代とは、一般に1901年の第1次桂内閣から1913年の第3次桂内閣まで、桂太郎と西園寺公望を中心に、藩閥・官僚勢力と政党勢力が協力と対立を重ねながら政権を担った時期です。
「桂」は桂太郎、「園」は西園寺公望の名から取られました。二人が実際に交互に首相を務めるのは1906年以降ですが、その前段階となる第1次桂内閣を含め、1901〜1913年を桂園時代と呼ぶのが一般的です。
桂と西園寺は、現代の二大政党の党首として選挙で競ったわけではありません。政府・軍・貴族院に強い勢力と、衆議院に強い政党が、互いを必要とした時代です。
5つの内閣を時系列で見る
桂と西園寺は、何を基盤にしていたのか
桂と西園寺の違いは、性格の違いだけではありません。二人の背後には、明治国家を動かす別々の政治基盤がありました。
桂太郎側
長州閥、陸軍、官僚、貴族院に強い基盤を持ち、山縣有朋の後継世代として政権を担いました。
西園寺公望側
立憲政友会の総裁として、衆議院議員、地方組織、選挙を通じた支持を政権の基盤にしました。
ただし、桂が軍の命令だけで政治を行い、西園寺が政党だけを代表したと単純化はできません。西園寺内閣にも官僚や軍人が入り、桂も予算を成立させるには政友会の協力を必要としました。
なぜ、どちらか一方だけでは国を動かせなかったのか
大日本帝国憲法のもとでは、首相を衆議院の多数党から選ぶ決まりはありませんでした。首相の選定には元老が強い影響を持ち、軍と官僚も独自の基盤を持っていました。
一方、法律と予算は帝国議会の協力なしには安定して成立させられません。軍備、鉄道、植民地経営などに大きな支出を必要とした政府は、衆議院で多数を持つ政党を無視できなくなりました。
政友会側も、議会で多数を持つだけでは政策を実行できません。政府と協力すれば、鉄道敷設など地方が望む事業を予算へ反映できます。この相互依存が、桂園時代を支えました。
「順番に首相をする」という約束だったのか
桂園時代は、二人が決められた順番どおりに首相を交代した制度ではありません。対立する場面もあり、政権交代のたびに政策、人事、議会対策を調整していました。
国立国会図書館が紹介する1905年12月30日の書簡では、次の首相となる西園寺が閣僚候補について桂の意向を事前に確認しています。翌年の第1次西園寺内閣に入った政友会員は、西園寺を含めても3人でした。
つまり政友会が政府をすべて入れ替えたのではなく、既存の官僚・軍・貴族院との関係を保ちながら、政党が政権の内側へ入ったのです。
第1次桂内閣――戦争を指導した長期政権
1901年に成立した第1次桂内閣は、4年半を超える長期政権になりました。1902年に日英同盟を結び、1904年からの日露戦争を指導します。
日本は戦争に勝利しましたが、膨大な戦費と多数の死傷者を出し、ポーツマス条約で賠償金を得られませんでした。講和条件への怒りは日比谷焼打ち事件へ発展します。
戦争の事後処理をほぼ終えた桂は、1906年1月に退任しました。ここから、西園寺との本格的な政権交代が始まります。
協力関係がなぜ第一次護憲運動によって崩れたのかを見ていきます。

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