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大日本帝国憲法とは?日本はどんな国家を目指したのか

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1889年2月11日、東京では憲法発布を祝う旗や飾りが街を彩り、新聞は号外で新しい国の基本法を伝えました。

江戸幕府が終わってから約20年。日本は、藩を廃止し、税・軍隊・学校・内閣を整え、ついに「国をどのような仕組みで動かすのか」を憲法として示したのです。

ただし、大日本帝国憲法を現代の日本国憲法と同じ感覚で読むことはできません。天皇を統治権の中心に置き、帝国議会と裁判所を設け、臣民の権利を認めながら、その権利には法律による制限がありました。

なぜこの形が選ばれたのでしょうか。国会開設の約束から起草、発布、そして実際に動き始めた政治までを順番に見ていきます。


目次

大日本帝国憲法をひとことで表すと

大日本帝国憲法とは、天皇を統治権の中心に置きながら、帝国議会・国務大臣・裁判所・臣民の権利と義務など、近代日本の統治の基本を定めた憲法です。

1889年2月11日に発布され、1890年11月29日に施行されました。全7章76条からなり、君主が臣民へ与える欽定憲法きんていけんぽうという形式をとりました。

正式名称大日本帝国憲法(明治憲法)
発布1889年2月11日
施行1890年11月29日
構成7章76条
制定形式欽定憲法
政治制度天皇を統治権の中心に置く立憲君主制

なぜ明治政府は憲法を必要としたのか

明治政府が憲法制定へ進んだ背景には、一つではなく三つの大きな事情がありました。

  • 国会開設の約束:政府は1881年、1890年に国会を開くと公約した
  • 国内からの要求:自由民権運動が国会開設と憲法制定を求めていた
  • 近代国家としての制度整備:外交・条約改正を進めるうえでも、安定した法制度を示す必要があった

1870年代から、板垣退助らの自由民権運動は、政府の一部だけで政治を決める体制を批判しました。各地では民間の憲法案である私擬憲法も作られ、人々が自分たちの望む国家像を議論するようになります。

政府内でも、いつ国会を開き、どの国の制度を参考にするかをめぐって意見が分かれました。1881年の明治十四年の政変で大隈重信が政府を去ると、政府は同時に国会開設の勅諭を発し、1890年の国会開設を約束します。

期限は決まりました。残された課題は、天皇・政府・議会・国民の関係をどのように組み立てるかでした。


伊藤博文はヨーロッパで何を調べたのか

憲法調査の中心を担ったのが伊藤博文いとうひろぶみです。1882年、伊藤は政府の命を受けてヨーロッパへ渡りました。

調査対象は憲法の条文だけではありません。皇室、内閣、上下両院、選挙、予算、司法、地方制度など、立憲国家が実際にどう運営されているかを調べる任務でした。

伊藤一行は、ベルリンで法学者グナイストやその弟子モッセから学び、ウィーンではローレンツ・フォン・シュタインの講義を受けました。とくに君主の権限が強いプロイセンを含むドイツ系の制度は、市民革命を経ずに政府主導で近代国家をつくろうとしていた日本にとって重要な参考になりました。

ただし、大日本帝国憲法はプロイセン憲法の単純な写しではありません。伊藤らは欧州の制度を調べ、日本の皇室のあり方や政治状況と組み合わせて、日本独自の制度を組み立てようとしました。

伊藤博文がなぜ制度づくりを担ったのかは、人物記事で詳しく紹介しています。


憲法は誰が、どのように作ったのか

憲法制定は伊藤博文一人の仕事ではありませんでした。中心となったのは、伊藤に加えて井上毅いのうえこわし、伊東巳代治いとうみよじ、金子堅太郎かねこけんたろうらです。ドイツ人法律顧問のヘルマン・ロエスレルも草案作成に関わりました。

井上毅の甲案・乙案、ロエスレル案などをもとに検討が重ねられ、1887年には神奈川県の夏島で伊藤らが草案をまとめました。これが夏島草案なつしまそうあんです。その後も複数回の修正が続きます。

1888年には、憲法草案を審議するため枢密院すうみついんが設けられ、伊藤が初代議長になりました。枢密院では明治天皇も多くの会議に臨席し、三回にわたる審議が行われました。

この制定過程に、選挙で選ばれた国民の代表は参加していません。政府内部で草案を作り、天皇の諮問機関で審議し、天皇が臣民へ与えるというのが欽定憲法の制定方法でした。

年憲法制定への動き
1881年国会開設の勅諭。1890年の国会開設を約束
1882〜1883年伊藤博文らがヨーロッパで憲法と政治制度を調査
1885年内閣制度を創設。伊藤が初代内閣総理大臣に就任
1887年井上毅らが夏島草案を作成
1888年枢密院を設置し、憲法草案を審議
1889年2月11日、大日本帝国憲法を発布
1890年11月29日に憲法施行、第1回帝国議会開会

1889年2月11日、憲法が国民へ示される

大日本帝国憲法は、紀元節にあたる1889年2月11日に発布されました。発布式では、明治天皇から内閣総理大臣の黒田清隆へ憲法が授けられました。

街では祝賀行事が行われ、新聞は憲法本文や発布の勅語を掲載しました。国民の多くにとって憲法の細かな仕組みはまだ身近ではなかったとしても、「日本にも憲法ができた」こと自体が近代国家の到来を感じさせる大きな出来事でした。

しかし、憲法は発布された瞬間に政治を一変させたわけではありません。翌1890年に選挙を行い、帝国議会を開くことで、条文に定められた仕組みが実際に動き始めます。

次のページでは、天皇・議会・内閣・裁判所はどのような関係にあり、臣民の権利はどこまで認められたのかを整理します。

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