大日本帝国憲法が定めた国の仕組み
大日本帝国憲法は、天皇の権限だけを記した憲法ではありません。臣民の権利と義務、帝国議会、国務大臣、司法、国家予算、憲法改正の手続きまで、国を動かす基本制度を全7章に分けて定めました。
| 章 | 主な内容 |
|---|---|
| 第1章 | 天皇の地位と権限 |
| 第2章 | 臣民の権利と義務 |
| 第3章 | 帝国議会 |
| 第4章 | 国務大臣と枢密顧問 |
| 第5章 | 司法 |
| 第6章 | 会計・国家予算 |
| 第7章 | 憲法改正などの補則 |
重要なのは、天皇が中心にいる一方で、政治が天皇一人の日常的な判断だけで動くように設計されていたわけではないことです。国務大臣が天皇を補佐し、議会が法律と予算を審議し、裁判所が司法を担いました。
天皇はどのような権限を持っていたのか
第1条は日本を「万世一系ノ天皇」が統治すると定め、第4条は天皇を国の元首とし、統治権を総攬するとしました。一般に、この仕組みは天皇主権と説明されます。
- 帝国議会の協賛を得て法律を制定する
- 国務大臣や官吏を任免する
- 条約を締結し、宣戦・講和を行う
- 陸海軍を統帥する
これらは天皇大権と呼ばれました。ただし、第4条には天皇が憲法の条規に従って統治権を行うことも記されていました。大日本帝国憲法は天皇に強い権限を置きながら、その国家運営を憲法と制度の枠内へ組み込もうとしたのです。
統帥権は、最初から軍の独走を決めていたのか
第11条は、天皇が陸海軍を統帥すると定めました。軍の指揮を一般の行政から区別する考えは、のちに軍が内閣や議会から独立した権限を主張する根拠の一つになります。
ただし、憲法発布の時点から軍の独走が避けられなかったと決めつけるのは適切ではありません。実際の影響は、その後の制度運用、軍部大臣の仕組み、政党政治の弱さ、戦争と社会情勢が重なって拡大しました。条文だけでなく、憲法が後にどう運用されたかを分けて考える必要があります。
帝国議会には何ができたのか
帝国議会は、貴族院と衆議院の二院で構成されました。法律の成立には帝国議会の協賛が必要で、議会は政府が提出する予算案を審議できました。
貴族院は皇族・華族・勅任議員などで構成され、衆議院議員は選挙で選ばれました。ただし、最初の衆議院選挙で投票できたのは、直接国税15円以上を納める満25歳以上の男性に限られます。
選挙権はごく一部に限られていましたが、政府が議会を無視して法律や予算を自由に決められたわけではありません。第1回帝国議会から、民権派につながる議員は予算削減を求め、政府と激しく対立しました。
制度が実際にどのように動いたのかは、帝国議会とは?で詳しくたどれます。
内閣は議会に責任を負っていたのか
現代の日本では、内閣は国会に対して連帯して責任を負い、内閣総理大臣は国会議員のなかから国会が指名します。
しかし、大日本帝国憲法には「内閣」や「内閣総理大臣」の地位が明記されていません。第55条は国務大臣が天皇を補佐し、その責任を負うと定めましたが、内閣が帝国議会に対して連帯責任を負う議院内閣制は採用されませんでした。
そのため、衆議院で多数を占めた政党が必ず政権を担う仕組みではありませんでした。首相は元老などの意向をもとに天皇が任命し、藩閥・官僚を中心とする内閣と政党が、予算や法律をめぐって協力と対立を繰り返します。
この点は、内閣制度とは?と合わせて読むと、現代との違いが分かりやすくなります。
臣民の権利はどこまで認められたのか
大日本帝国憲法は、人々を「国民」ではなく「臣民」と呼びました。臣民には兵役と納税の義務がある一方、次のような権利や自由も定められました。
- 法律によらず逮捕・監禁・審問・処罰されないこと
- 住居の不可侵、居住・移転の自由
- 信教の自由
- 言論・著作・出版・集会・結社の自由
- 所有権の保護、請願する権利
近代日本で権利が憲法に明文化されたことには大きな意味があります。一方、その多くには「法律ニ定メタル場合」「法律ノ範囲内」といった条件が付いていました。政府が法律を制定すれば、権利を広く制限できる余地が残されていたのです。
つまり、「権利がなかった」とするのも、「現代と同じ基本的人権が保障された」とするのも正確ではありません。権利は憲法に記されましたが、その保障の考え方と強さは現代とは異なっていました。
自由民権運動の要求は実現したのか
自由民権運動が求めた憲法と国会は、形のうえでは実現しました。人々の政治参加を求める運動が政府に国会開設を約束させ、立憲政治への移行を早めたことは確かです。
しかし、民権派の私擬憲法が政府案として採用されたわけではありません。主権は国民ではなく天皇にあり、選挙権は一部の男性に限られ、内閣は議会に責任を負いませんでした。
それでも帝国議会が開かれると、衆議院は予算審議を通じて政府へ影響を与えました。民権派の流れをくむ政党は議会内の勢力となり、伊藤博文自身も1900年に立憲政友会を結成します。
大日本帝国憲法は、民権派の勝利だけでも政府による吸収だけでもありません。政府が主導して強い君主権を残しながら、議会政治が動く制度を成立させた、両者の緊張を抱えた憲法でした。
日本国憲法とは何が違うのか
| 比較点 | 大日本帝国憲法 | 日本国憲法 |
|---|---|---|
| 施行 | 1890年 | 1947年 |
| 主権 | 天皇主権 | 国民主権 |
| 人々の位置づけ | 臣民 | 主権者である国民 |
| 権利 | 法律の範囲内で保障 | 基本的人権として保障 |
| 議会 | 貴族院・衆議院 | 参議院・衆議院 |
| 内閣 | 議会への連帯責任を規定せず | 国会に対して連帯責任を負う |
| 軍事 | 天皇が陸海軍を統帥 | 戦争放棄と戦力不保持を規定 |
大日本帝国憲法を現代の基準だけで評価すると、成立当時に議会・司法・権利を憲法上の制度として置いた意味が見えにくくなります。一方、「当時として進歩的だった」という説明だけでは、強い天皇大権、限定的な参政権、権利制限の余地を見落としてしまいます。
歴史上の意味と制度上の限界を、同時に見ることが大切です。
大日本帝国憲法が残したもの
大日本帝国憲法の成立によって、日本では憲法、内閣、議会、裁判所、選挙、予算審議が結びついた立憲政治が始まりました。政府も法律と予算をめぐって議会と向き合わなければならなくなり、政党が政治を動かす余地が生まれます。
同時に、憲法には複数の統治機関をまとめる仕組みの弱さもありました。内閣の地位が憲法に明記されず、軍の統帥が一般行政から区別された構造は、後の政治状況のなかで深刻な対立を生む要因になります。
また、憲法だけで明治国家の全体を理解することはできません。教育勅語や学校制度は、国家・家族・天皇の関係を人々へ伝える役割を担いました。制度としての憲法と、教育を通じた国民統合が並行して進められたのです。
まとめ
大日本帝国憲法は、1889年に発布された日本最初の近代憲法です。天皇を統治権の中心に置きながら、帝国議会、国務大臣、裁判所、臣民の権利と義務などを定めました。
憲法制定の背景には、自由民権運動、1890年の国会開設という政府の公約、近代国家としての制度整備がありました。伊藤博文が欧州制度を調査し、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、ロエスレルらが起草に関わり、枢密院の審議を経て成立します。
権利と議会を制度化した点は重要でしたが、国民主権や議院内閣制を採用した憲法ではありません。大日本帝国憲法とは、近代的な立憲政治の入口を開くと同時に、後の日本政治が抱える緊張も残した国家の基本法だったのです。
憲法成立までの流れを、さらに読む
運動・人物・政府・制度。気になる視点から、大日本帝国憲法へ至る道と、その後をたどれます。
主な参考資料
- 大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、118〜150頁
- 国立公文書館「1889年2月11日 大日本帝国憲法発布の日|大日本帝国憲法を発布する」
- 国立公文書館「明治22年(1889)2月|大日本帝国憲法が発布される」
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「大日本帝国憲法・御署名原本」
- 国立国会図書館「伊藤博文|近代日本人の肖像」

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