MENU
記事を探す

自由民権運動とは?なぜ人々は国会開設と憲法を求めたのか

当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

1874年1月17日、政府を去った板垣退助いたがきたいすけらは、一部の政府高官だけで政治を決める体制を批判し、国民が選んだ議員による議会の開設を求めました。

ここから始まった自由民権運動は、士族だけの運動でも、最初から農民だけの運動でもありません。政府を去った士族から地方の地主・農民・商工業者・知識人へと担い手を広げ、演説、新聞、請願、政党、憲法草案、そして一部では武装蜂起という異なる形をとりました。

人々はなぜ国会と憲法を求め、政府はなぜ運動を抑えながら国会開設を約束したのでしょうか。1874年から1890年までの流れをたどります。


目次

自由民権運動をひとことで表すと

自由民権運動とは、1870年代から1880年代に、人々が国会の開設、憲法の制定、言論・集会の自由、政治参加の拡大などを求めた全国的な政治運動です。

「自由」は人が持つ自由や権利、「民権」は人民が政治に参加する権利を意味します。ただし、参加者全員が同じ制度を望んでいたわけではありません。早期の国会開設を求める人、地方自治を重視する人、税負担の軽減を求める農民、政府への復帰を目指す士族など、立場も目的もさまざまでした。

段階主な担い手運動の中心
1874年前後政府を去った士族・旧官僚藩閥政府の批判、民選議院の設立
1870年代後半地方士族、地主、農民、商工業者、知識人政治結社、演説、地方議会、国会開設請願
1880年代前半政党員、地方活動家、困窮農民政党活動、私擬憲法、政府への抵抗、一部の武装蜂起
1880年代後半再結集した民権派・政党言論・集会の自由、地租軽減、議会政治への準備

始まりは1874年|政府を去った板垣退助らの建白書

1873年、朝鮮への使節派遣をめぐる対立から、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎ごとうしょうじろう、副島種臣そえじまたねおみ、江藤新平えとうしんぺいらが政府を去りました。これが明治六年政変です。

政府を去った人々は、その後、同じ道を選びませんでした。西郷隆盛は鹿児島へ戻ります。一方、板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らは、1874年1月に愛国公党を結成し、同月17日に民撰議院設立建白書みんせんぎいんせつりつけんぱくしょを政府の左院へ提出しました。この動きには、翌月に佐賀の乱へ加わる江藤新平も参加していました。

建白書が批判したのは、薩摩・長州出身者など少数の官僚が政治を独占する有司専制ゆうしせんせいでした。板垣らは、天下の意見を広く集めるため、国民が選んだ議員による議会を早く設けるべきだと主張します。

建白書は新聞『日新真事誌』に掲載され、政府内部の議論が広く社会へ伝わりました。これが自由民権運動の出発点とされています。

板垣退助がなぜ武力ではなく議会へ向かったのかは、人物記事で詳しく紹介しています。


自由民権運動と士族反乱は、同じ時代に始まった

現行記事では「士族反乱がすべて敗れたあと、武力に代わって自由民権運動が始まった」と説明していました。しかし、年代を並べるとそうではありません。

年言論・議会を求める動き武力による反政府運動
1874年民撰議院設立建白書佐賀の乱
1875年立志社・愛国社の活動、立憲政体樹立の詔—
1876年政治結社や演説活動が広がる神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
1877年愛国社再興へ西南戦争

板垣と江藤が同じ建白書に名を連ねながら、その後は異なる道へ進んだことが象徴的です。自由民権運動と士族反乱は、政府の進め方への不満を背景にしながら、議会を求める道と武力で訴える道に分かれて同時に進んでいました。

西南戦争の敗北後、士族による大規模な反乱が難しくなると、言論と組織による運動がいっそう活発になります。ただし、その後の民権運動から武力が完全に消えたわけではありません。


地方へ広がる運動|士族だけでなく農村の人々も参加する

板垣は故郷の土佐で立志社りっししゃを設立しました。立志社を中心に各地の政治結社が連携し、全国組織の愛国社あいこくしゃへ発展します。

運動を広げたのは、演説会、新聞、雑誌、学習会でした。難しい政治思想は各地の活動家によって語り直され、地方の地主、農民、商工業者、教師、若者へ届いていきます。

1878年には府県会規則が定められ、公選議員による府県会が設けられました。選挙権は高額納税者に限られましたが、地方の予算や税をめぐって、住民の代表と県令が議論する新しい政治の場が生まれます。

運動の参加者は、抽象的な「自由」だけを求めたのではありません。地租の負担、道路工事、地方行政、借金、土地を失う不安など、暮らしに直結する問題を政治と結びつけて考えるようになりました。


1880年、国会を求める声が全国から集まる

1880年3月、愛国社の大会をもとに国会期成同盟こっかいきせいどうめいが成立しました。各地の政治結社や活動家が集まり、国会開設を求める全国的な運動を進めます。

国会期成同盟は、河野広中と片岡健吉を代表として国会開設の要望書を太政官と元老院へ提出しようとしましたが、政府は受理しませんでした。それでも1880年には、全国から約70件の国会開設建白書が政府へ寄せられています。

政府は同じ年に集会条例を制定し、政治集会の届け出、屋外集会の禁止、警察による解散命令などを定めました。人々の声が広がるほど、政府の規制も強まったのです。


民間で憲法をつくる|私擬憲法に込められた国の姿

民権派は国会開設を待つだけでなく、自分たちが望む国の仕組みを憲法案として書き始めました。政府がつくる前に民間で構想された憲法案を、私擬憲法しぎけんぽうと呼びます。

植木枝盛うえきえもりの「日本国国憲案」は、人民の自由と権利、地方自治、国会中心の政治に加え、権力へ抵抗する権利まで盛り込みました。

東京・五日市では、教師の千葉卓三郎ちばたくさぶろうと地域の人々が学習会で議論を重ね、1881年ごろに五日市憲法草案いつかいちけんぽうそうあんをまとめました。国民の権利や平等を多く定めた全204条の草案です。

私擬憲法の存在は、自由民権運動が政府への反対だけではなかったことを示しています。人々は「どんな国をつくるのか」を、自ら学び、議論し、文章にしようとしていました。


女性も民権を求めたが、政治参加から排除された

自由民権運動は男性だけのものではありません。高知の楠瀬喜多くすのせきたは1878年、戸主として納税しているのに女性だから投票できないのは不当だと訴えました。岸田俊子きしだとしこらも演説や文章を通じて、女性の権利を問いかけます。

しかし、その後の国政選挙で選挙権を得たのは、一部の高額納税男性だけでした。「民権」を掲げる運動のなかにも女性を政治の主体として扱わない考えがあり、権利の範囲をめぐる限界と対立があったのです。


1881年、政府は10年後の国会開設を約束する

1881年、開拓使の官有物を政府関係者に近い商社へ安く払い下げようとした問題が報道され、政府への批判が高まりました。開拓使官有物払下げ事件かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけんです。

政府内では、イギリス型の議院内閣制と早期国会開設を唱える大隈重信おおくましげのぶと、君主権の強い制度を参考に段階的な整備を進めようとする伊藤博文らが対立していました。政府は大隈を追放する一方、1890年に国会を開くと約束する「国会開設の勅諭」を発します。これが明治十四年の政変めいじじゅうよねんのせいへんです。

民権派が求めた国会開設は、ついに政府の正式な予定となりました。しかし、国会を誰が動かし、どのような憲法をつくるのかは、まだ決まっていません。

国会開設の勅諭が出された政治的背景は、個別記事で詳しくたどれます。

次のページでは、国会開設の約束を受けて政党が生まれ、農村の生活苦と政府の弾圧が運動をどのように変えたのかを見ていきます。

1 2
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次