国会開設の約束は、なぜ運動を終わらせなかったのか
政府が国会開設を約束すると、民権派の課題は「国会を開かせること」から、「国会でどのような政治を行うか」へ変わりました。
1881年、板垣退助を中心に自由党が結成されます。翌1882年には、大隈重信を中心に立憲改進党が結成されました。
| 政党 | 中心人物 | 主な支持基盤と方向 |
|---|---|---|
| 自由党 | 板垣退助 | 旧土佐藩士、地方地主、在野の活動家など。フランス流の自由主義の影響が強い |
| 立憲改進党 | 大隈重信 | 都市の知識人、実業家など。イギリス流の立憲政治を重視 |
| 立憲帝政党 | 福地源一郎 | 政府を支持し、君主権の強い立憲体制を主張 |
民権派が一枚岩だったわけではありません。国会開設の時期、憲法の形、地方自治、外交、政府との協力をめぐり、自由党と立憲改進党は対立しました。政党は人々の意見をまとめる器になった一方、新しい競争と分裂も生みました。
政府は運動をどのように取り締まったのか
政府は国会開設を約束しながら、自由な政治活動を全面的に認めたわけではありません。
- 1875年:讒謗律と新聞紙条例で政府批判や新聞を規制
- 1880年:集会条例で政治集会を届け出制とし、警察に解散権を与える
- 1882年:集会条例を改正し、政党支部や政党間の連携を制限
- 1887年:保安条例によって民権運動家らを東京から退去させる
政府の対応は、要求の一部を制度へ取り入れることと、運動を規制することの両方から成り立っていました。「弾圧」か「受け入れ」かのどちらか一方ではなく、政府が主導権を保ちながら立憲政治へ移ろうとしたのです。
松方デフレが、政治運動を生活防衛へ変えていく
1880年代前半、自由民権運動は農村の深刻な経済問題と結びつきました。
西南戦争後のインフレを抑えるため、大蔵卿の松方正義は政府支出を削減し、紙幣を回収する緊縮政策を進めました。物価が下がるデフレが起き、米や繭など農産物の価格も下落します。
地租は地価をもとに現金で納めるため、農産物価格が下がっても負担は簡単には軽くなりませんでした。借金を返せず土地を手放し、小作人になる農民が増えていきます。
国会や権利を求める運動は、「借金の返済を延ばしてほしい」「税や工事負担を軽くしてほしい」という生活防衛の要求と重なりました。詳しい経済の仕組みは、松方デフレの記事で解説しています。
激化事件|なぜ言論運動の一部が武装蜂起へ進んだのか
政府の取り締まり、政党内の対立、農村の生活苦が重なると、民権運動の一部は衝突や武装蜂起へ進みました。これらは激化事件と呼ばれます。
| 年 | 事件 | 背景・特徴 |
|---|---|---|
| 1882年 | 福島事件 | 県令三島通庸の道路工事政策に県会や自由党員が反発し、河野広中らが逮捕された |
| 1884年 | 群馬事件 | 自由党急進派らが警察と衝突した |
| 1884年 | 加波山事件 | 自由党急進派が政府要人への攻撃を計画し、警察と衝突した |
| 1884年 | 秩父事件 | 借金に苦しむ農民らが困民党を組織し、返済延期などを求めて蜂起した |
激化事件を「自由民権運動はもともと暴力的だった」と理解するのも、「自由民権運動は完全な非武装運動だった」と理解するのも正確ではありません。中心は言論・請願・結社でしたが、一部の参加者は追い詰められた状況で武力を選びました。
なかでも秩父事件では、政治思想と農村の生活危機が強く結びついていました。農民がなぜ秩父困民党を組織し、武装蜂起へ進んだのかは個別記事で詳しくたどれます。
相次ぐ事件と資金難、内部対立によって、自由党は1884年に解党しました。運動は大きな停滞期を迎えます。
運動は消えず、再結集して議会政治へ向かった
自由党が解党しても、国会が実際に開かれたわけではありません。1886年ごろから、後藤象二郎、星亨、中江兆民らが民権派の再結集を呼びかける大同団結運動を進めました。
1887年には片岡健吉らが、条約改正交渉の中止、地租軽減、言論・集会の自由を求める三大事件建白を提出します。これに対し政府は保安条例を制定し、民権運動家ら約570人を東京から退去させました。
ここでも民権運動は、憲法と国会だけでなく、税負担や外交政策を含む政治全体を問う運動になっていたことが分かります。
1889年の憲法と1890年の国会は、民権派の勝利だったのか
1889年、大日本帝国憲法が発布されました。翌1890年7月には第1回衆議院議員総選挙が行われ、11月に第1回帝国議会が開会します。
国会の開設と臣民の権利が制度として定められたことは、自由民権運動が求めてきたものと重なります。民権派出身の政治家は衆議院へ進み、政府の軍事費に対して減税と支出削減を求める「民力休養」を主張しました。
一方、実現した制度は民権派の構想そのものではありませんでした。
- 憲法は国民の代表が制定したのではなく、天皇が定める欽定憲法だった
- 主権は天皇にあり、政府は議会の多数派からつくられる仕組みではなかった
- 自由や権利は「法律の範囲内」で認められた
- 衆議院選挙権は、直接国税15円以上を納める満25歳以上の男性に限られた
- 女性や大多数の男性は国政選挙へ参加できなかった
したがって、憲法と国会は自由民権運動の単純な「勝利」でも、政府による一方的な「吸収」でもありません。民権派の圧力と政府自身の国家構想がぶつかり、政府主導の立憲体制として形になったと見るのが適切です。
憲法の仕組みは大日本帝国憲法の記事、国会で実際に何が争われたのかは帝国議会の記事で詳しく紹介しています。
自由民権運動の流れを時系列で整理する
| 年 | 出来事 | 運動の変化 |
|---|---|---|
| 1873年 | 明治六年政変 | 板垣退助らが政府を去る |
| 1874年 | 民撰議院設立建白書 | 有司専制を批判し、民選議院を要求 |
| 1875年 | 立志社・愛国社、立憲政体樹立の詔 | 地方結社が生まれ、政府も段階的な立憲化を示す |
| 1878年 | 府県会規則 | 制限付きながら地方議会が設けられる |
| 1880年 | 国会期成同盟、集会条例 | 全国的な国会開設運動と政府の規制が並行 |
| 1881年 | 国会開設の勅諭、明治十四年の政変、自由党結成 | 1890年の国会開設が決まり、政党活動へ移る |
| 1882年 | 立憲改進党、福島事件 | 政党間の対立と政府との衝突が強まる |
| 1884年 | 群馬・加波山・秩父事件、自由党解党 | 運動の一部が武装化し、全国運動は停滞 |
| 1887年 | 三大事件建白、保安条例 | 民権派が再結集する一方、政府の弾圧も強化 |
| 1889年 | 大日本帝国憲法発布 | 政府主導の立憲体制が定められる |
| 1890年 | 第1回総選挙・第1回帝国議会 | 運動の多くが議会と政党の活動へ移る |
自由民権運動が残したもの
自由民権運動の重要な点は、国会が開かれたことだけではありません。
- 政治を公に論じる文化:演説、新聞、雑誌を通して政策を批判し、意見を広げた
- 全国的な組織:地域の結社が国会期成同盟や政党へつながった
- 憲法を考える経験:政府だけでなく民間でも、権利と統治の仕組みを文章にした
- 暮らしと政治の接続:税、借金、道路工事などの日常問題を政治参加の課題にした
- 議会政治への人材:民権運動家や政党が、1890年以降の帝国議会を動かす勢力になった
同時に、運動内部の分裂、男性中心の権利観、経済的困窮からの武装化、朝鮮への介入を唱えた民権家の存在なども見落とせません。自由民権運動は、後世の民主主義へ一直線に進んだ物語ではなく、異なる人々が「誰が国を動かすのか」をめぐって試行錯誤した運動でした。
まとめ
自由民権運動は、1874年の民撰議院設立建白書を出発点に、国会開設、憲法制定、政治参加と権利の拡大を求めた運動です。
初期の中心は政府を去った士族でしたが、運動は地方の地主、農民、商工業者、知識人、女性へ広がりました。言論と請願が中心だった一方、松方デフレと政府の規制が重なるなか、一部は激化事件へ進みます。
1889年の憲法と1890年の帝国議会は、民権派の要求をそのまま実現したものではありません。それでも、人々が政治を自分たちの問題として語り、組織し、国の仕組みを考えた経験は、その後の政党政治と権利拡大の土台になりました。
自由民権運動の、その先を読む
人物・政府・農村・制度。気になる視点から、自由民権運動の続きをたどれます。
主な参考資料
- 大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、77〜97頁、127〜140頁
- 山村竜也『世界一よくわかる幕末維新』祥伝社、2018年、247頁
- 国立国会図書館「民撰議院設立の建白」
- 国立国会図書館「国会期成同盟の請願」
- 国立公文書館「国会開設前夜」
- あきる野市「五日市憲法草案ゆかりの人・ゆかりの地」

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