政党政治が最も強かった時期に、政党で統制できない問題も重なった
1928年2月20日、日本で初めて男子普通選挙による衆議院議員総選挙が行われました。納税資格を問われなくなったため、有権者は従来のおよそ4倍に増えます。立憲政友会と立憲民政党は、わずか1議席差でした。無産政党も合計8議席を得て、それまで国政選挙へ参加できなかった労働者や農民の声が、議席として表れました。
さらに1930年の総選挙では、立憲民政党が273議席を獲得しました。浜口雄幸内閣は、この絶対多数を背景として軍令部や枢密院の反対を押し切り、ロンドン海軍軍縮条約を批准します。1930年の時点で、政党内閣は選挙でも政策決定でも大きな力を持っていました。
しかし、同じ時期に別の問題も進んでいました。
| 政党政治の到達点 | 同時に進んだ問題 |
|---|---|
| 初の男子普通選挙で有権者が約4倍になる | 三・一五事件で共産党員と関係者が全国一斉に検挙される |
| 政友会と民政党が全国規模で政権を争う | 議会で成立しなかった治安維持法改正が緊急勅令で実施される |
| 1930年に民政党が273議席を得る | 世界恐慌、旧平価での金解禁、緊縮財政が重なり昭和恐慌が深刻化する |
| 浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を批准する | 統帥権を政争に用いる論理が強まり、浜口首相が狙撃される |
| 二大政党間の政権交代が続く | 関東軍の一部将校が政府の命令なしに張作霖を爆殺し、政府は十分に処分できない |
この四年間を「政党政治が衰えた時期」とだけ説明すると、1930年の総選挙と条約批准を説明できません。反対に「二大政党制が完成した時期」とだけ説明すると、張作霖爆殺事件、昭和恐慌、統帥権干犯問題、浜口首相狙撃事件を見落とします。
この記事では、日本政党史の第9回として、1928年の初の男子普通選挙から1931年春までをたどります。選挙、治安政策、対中政策、経済政策、軍縮と統帥権を一つの流れで見ることで、政党政治が強い基盤を持ちながら、その外側と足元に難題を抱えていたことを明らかにします。
先に押さえたい五つの言葉
| 言葉 | 意味 | この記事での注意点 |
|---|---|---|
| 男子普通選挙 | 納税額にかかわらず、25歳以上の男性へ衆議院議員選挙権を認めた制度 | 女性と25歳未満の男性は選挙権を持たなかった |
| 三・一五事件 | 1928年3月15日、政府・警察が日本共産党員と関係者を全国一斉に検挙した事件 | 共産党が暴動を起こした事件ではない |
| 緊急勅令 | 明治憲法第8条に基づき、議会閉会中の緊急時に法律に代わる規定を設ける仕組み | 1928年の治安維持法改正では、議会で成立しなかった内容が実施された |
| 昭和恐慌 | 世界恐慌、旧平価での金解禁、緊縮財政などが重なって深刻化した不況 | 1927年の昭和金融恐慌とは原因と性格が異なる |
| 統帥権干犯問題 | ロンドン海軍軍縮条約を結んだ政府が天皇の統帥権を侵した、と軍令部・政友会・民間右翼などが攻撃した問題 | 憲法・軍事上の論争と政党間の政争が重なっていた |
まず流れを確認|1928年から1931年春まで
| 年月 | 主な出来事 | 政党史での意味 |
|---|---|---|
| 1928年2月20日 | 第16回衆議院議員総選挙 | 初の男子普通選挙。政友会217、民政党216、無産政党8議席となった |
| 1928年3月15日 | 三・一五事件 | 非合法の日本共産党と関係者を対象に全国一斉検挙が行われた |
| 1928年4月10日 | 労働農民党など三団体の結社禁止 | 治安維持法ではなく、治安警察法第8条が使われた |
| 1928年5月 | 済南事件 | 山東出兵中の日本軍と国民革命軍が衝突し、対中政策の緊張が高まった |
| 1928年6月4日 | 張作霖爆殺事件 | 関東軍の一部将校が政府の命令なしに謀略を実行した |
| 1928年6月29日 | 緊急勅令による治安維持法改正 | 最高刑に死刑を加え、目的遂行のための行為も処罰対象とした |
| 1928年12月 | 張学良が易幟 | 満洲が南京国民政府への服属を示し、中国統一が形式上ほぼ完成した |
| 1929年4月16日 | 四・一六事件 | 共産党組織への全国規模の検挙で、中央組織が大きな打撃を受けた |
| 1929年7月2日 | 田中内閣総辞職、浜口内閣成立 | 政友会から民政党へ二大政党間の政権交代が行われた |
| 1929年秋 | 世界恐慌 | 世界貿易と商品価格の落ち込みが日本経済へ波及した |
| 1930年1月11日 | 金輸出解禁 | 旧平価での金本位制復帰と緊縮財政がデフレ圧力を強めた |
| 1930年2月20日 | 第17回衆議院議員総選挙 | 民政党が273議席を獲得し、絶対多数となった |
| 1930年4月22日 | ロンドン海軍軍縮条約調印 | 政府と軍令部の権限をめぐり、統帥権干犯問題が激化した |
| 1930年10月2日 | 同条約批准 | 浜口内閣は軍令部と枢密院の反対を押し切った |
| 1930年11月14日 | 浜口首相狙撃事件 | 政党内閣の国家方針に対し、政治暴力が向けられた |
| 1931年4月14日 | 浜口内閣総辞職、第2次若槻内閣成立 | 政党内閣は継続したが、経済・軍・政治暴力の問題を引き継いだ |
1|初の男子普通選挙で、誰が政治へ参加したのか
1925年に衆議院議員選挙法が改正されてから3年後の1928年2月20日、第16回衆議院議員総選挙が行われました。これが男子普通選挙法制のもとで実施された最初の国政選挙です。
納税資格が撤廃されたため、それまで選挙権を持てなかった労働者、農民、都市の勤労者が有権者になりました。地主、資産家、地方名望家の人的関係だけでは選挙を動かせなくなり、政党は大量の有権者へ政策を訴え、全国的な組織を整える必要に迫られます。
ただし、これは現在と同じ普通選挙ではありません。
| 投票できる人 | 投票できない人 |
|---|---|
| 納税額にかかわらない25歳以上の男性 | 女性 |
| それまで納税資格を満たせなかった労働者・農民・勤労者 | 25歳未満の男性 |
| 新たに有権者となった約900万人を含む男性 | 法律上の除外条件に当たる人 |
男子普通選挙の実施によって、「なぜ男性だけなのか」という問題も明確になりました。市川房枝らは女性参政権を求め、地方政治への参加を認める婦人公民権運動も続きます。女性が国政選挙権を得るのは1945年です。
2|217対216と無産政党8議席は、何を示したのか
第16回総選挙の結果は、二大政党の拮抗と、新しい勢力の国政進出を同時に示しました。
| 主な党派・勢力 | 議席 |
|---|---|
| 立憲政友会 | 217 |
| 立憲民政党 | 216 |
| 実業同志会 | 4 |
| 革新党 | 3 |
| 無産政党合計 | 8 |
この表にないその他・無所属を含め、総定数は466議席です。1927年に立憲民政党が成立して整った「政友会対民政党」の構図は、最初の男子普通選挙で1議席差の競争になりました。二党だけで全議席の9割以上を占めています。
無産政党は、労働農民党2議席、日本労農党1議席、社会民衆党4議席、その他1議席の合計8議席でした。納税資格の撤廃は既成政党の有権者を増やしただけでなく、労働者や農民を代表しようとする合法政党が議会へ入る条件も作りました。
ここで、無産政党と日本共産党を同一視してはいけません。労働農民党、日本労農党、社会民衆党は、公然と選挙へ参加した合法政党です。日本共産党は治安維持法の取締り対象とされた非合法組織でした。
一方、両者が完全に無関係だったわけでもありません。労働農民党や労働組合の内部・周辺には、共産党員や思想的に近い活動家もいました。「同じ組織ではないが接点はあった」という関係を押さえると、三・一五事件後に合法団体まで禁止された経過が理解しやすくなります。
3|政党は、地方行政と警察も選挙資源にした
1928年の総選挙前、田中義一内閣は各府県の知事、内務部長、警察部長を大規模に更迭・異動させました。野党は、与党政友会を有利にする選挙干渉だと批判します。
1892年の第2回総選挙では、政府が民党を抑えるために警察力を用いました。1928年には、政府を担っている側が政党です。かつて政党を苦しめた内務省、地方官僚、警察という行政機構を、与党になった政党が利用できる立場にありました。
政党が政権を担うことは、予算、鉄道、道路、官職だけでなく、選挙を運営する人事にも影響を及ぼすことでした。普通選挙の実施だけで、選挙が権力から独立したわけではありません。

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