8|中国統一の進行は、日本の対中政策とどう衝突したのか
この時期の政党政治は、中国情勢と切り離せません。中国では、蒋介石が率いる中国国民党・国民革命軍が、各地の軍閥を倒しながら統一を目指す北伐を進めていました。
日本は中国に居留民、企業、鉄道権益を持っていました。田中内閣は居留民と権益の保護を掲げ、北伐の進展に応じて複数回の山東出兵を行います。1928年5月、山東省済南で日本軍と国民革命軍が衝突しました。済南事件です。
事件の発端や責任については、日中双方の説明に違いがあります。一方の主張だけを確定した事実として書くことはできません。衝突が発生し、多数の死傷者を出して日中関係を悪化させたことと、原因の説明が対立していることを分けて考える必要があります。
田中外交と幣原外交の違いも、「強硬」と「無策」だけでは整理できません。
| 外交 | 目的 | 主な手段 |
|---|---|---|
| 幣原外交 | 中国における日本の利益を守る | 国際協調と外交交渉を重視する |
| 田中外交 | 中国における日本の利益を守る | 必要と判断すれば軍隊派遣も行う |
両者は日本の権益を前提とする点を共有し、主に手段で異なりました。この区別は、1931年以降の幣原外交と軍事行動を考えるときにも重要です。
9|張作霖爆殺事件は、政府が命じていない軍事行動だった
1928年6月4日、奉天派の指導者・張作霖が、北京から満洲へ戻る途中に列車を爆破され、死亡しました。実行したのは関東軍高級参謀の河本大作らです。
| 言葉 | 意味 |
|---|---|
| 関東軍 | 中国東北部に置かれ、関東州や南満洲鉄道沿線の警備・防衛を担当した日本陸軍部隊。「関東」は日本の関東地方ではなく、遼東半島の関東州に由来する |
| 満蒙 | 満洲と周辺の蒙古地域をまとめた、当時の日本側の政治・外交用語。現在の正式な地域名ではない |
| 満洲某重大事件 | 日本軍関係者の関与を公然と認めず、事件内容をぼかすために当時用いられた呼称 |
重要なのは、日本政府が爆殺を命じていないことです。他国の有力者を殺害し、戦争へ発展する危険もある行為を、現地軍の一部将校が政府の意思と手続きを離れて実行しました。
前回見た枢密院は、選挙で選ばれない機関でしたが、憲法上の位置づけを持ち、手続に従って政府案を否決しました。張作霖爆殺を実行した将校は、政府の命令も正式な手続も踏んでいません。
| 政党内閣が止められなかった相手 | 問題の性格 |
|---|---|
| 枢密院 | 明治憲法の制度設計の内側で、政府案を止めた |
| 関東軍の一部将校 | 軍の統制を離れ、制度上の手続を踏まずに行動した |
この二つを同じ「議会外の権力」とだけまとめると、制度設計の問題と軍の統制問題の違いを見失います。
10|張作霖爆殺の謀略は、意図と反対の結果を招いた
関東軍の一部は、張作霖を排除すれば満洲の政治状況を日本に有利にできると考えました。しかし、後を継いだ張学良は南京国民政府との関係を強めます。
1928年末、張学良は満洲で使用していた旗を南京国民政府の旗へ替え、蒋介石の国民政府への服属を示しました。これを易幟と呼びます。北伐によって進んでいた中国統一は、易幟によって形式上ほぼ完成しました。
満洲権益を安定させようとした謀略が、満洲を南京国民政府へ近づけました。政策や行動の意図と、その結果は一致するとは限りません。しかも、この事件では実行者への責任追及も十分に行われませんでした。
11|なぜ田中内閣は総辞職したのか
田中義一首相は当初、事件の責任者を厳しく処分する方針を昭和天皇へ報告しました。しかし最終的には十分な責任追及ができず、報告内容も変化します。昭和天皇は田中の対応を強く問題視し、1929年7月2日に田中内閣は総辞職しました。
この問題には三つの層があります。
| 層 | 問われたこと |
|---|---|
| 軍の統制 | 政府と陸軍中央は現地軍を統制できるのか |
| 首相の政治責任 | 政府が命令していない行為について、首相はどこまで責任を負うのか |
| 天皇への上奏 | 最初の報告と処分結果が異なったことを、どう説明するのか |
田中内閣を直接終わらせたのは、軍のクーデターでも、軍部大臣の辞任でもありません。現地軍の行為を処理できず、天皇への報告も変わったことに対する政治責任でした。
1929年には、「軍を統制できない内閣は責任を問われる」という回路が機能していました。この回路が1931年の満洲事変ではどう変わるのかが、次回の重要な問いになります。
12|浜口雄幸内閣は、二大政党間の政権交代で成立した
田中内閣が総辞職した1929年7月2日、立憲民政党総裁・浜口雄幸に組閣の大命が下りました。政友会から民政党への政権交代です。
この時期、立憲政友会と立憲民政党が交互に内閣を組織する政治慣行は「憲政の常道」と呼ばれます。ただし、衆議院第一党の党首が自動的に首相となる法制度ではありません。元老の推薦と天皇の任命という仕組みを残したまま、二大政党間の交代を慣例として運用していました。
浜口内閣の政策は、二人の大臣に集約できます。
| 大臣 | 人物 | 主な政策 |
|---|---|---|
| 大蔵大臣 | 井上準之助 | 緊縮財政、金解禁、産業合理化 |
| 外務大臣 | 幣原喜重郎 | 国際協調外交、軍縮 |
内政では緊縮、外交では協調と軍縮を進める。浜口内閣は、政党が国内経済と国際外交の大方針を決める内閣でした。
13|金解禁と世界恐慌は、なぜ昭和恐慌を深刻にしたのか
金解禁とは、第一次世界大戦中から停止していた金の輸出を再び認め、日本を金本位制へ本格的に復帰させる政策です。浜口内閣は1930年1月11日に金輸出を解禁しました。
問題となったのは、第一次世界大戦前の円と金の交換比率に戻す旧平価でした。1920年代末の経済実態に比べて円を高く評価する方向に働き、円高と物価下落の圧力を強めます。
井上準之助は、緊縮と産業合理化によって企業の高コスト体質を改め、物価・賃金・経費を調整して国際競争力を高めようとしました。この考え方は、各国が金本位制へ復帰していた当時としては広く認められていた政策思想の一つです。
しかし、実施時期には厳しい条件が重なりました。
昭和恐慌を金解禁だけで説明することも、世界恐慌だけで説明することもできません。世界経済の大きな落ち込みに、日本政府が選択した旧平価と緊縮が重なりました。
1927年の昭和金融恐慌との違いも重要です。
| 恐慌 | 主な性格 |
|---|---|
| 1927年の昭和金融恐慌 | 震災手形の処理、銀行への信用不安、取り付けなど金融システムの危機 |
| 1930年前後の昭和恐慌 | 世界恐慌、輸出不振、物価下落、緊縮などが重なった実体経済全体の不況 |
農村の困窮は、政治不信へ結びついた
昭和恐慌の打撃は、とくに農村へ深く及びました。農家にとって養蚕と生糸は重要な現金収入源でしたが、輸出先であるアメリカの需要が落ち、生糸価格が急落します。農産物価格も下がり、農家収入の減少、借金の増加、小作農の困窮が進みました。
1925年の改正で選挙権を得たばかりの農民にとって、政党内閣が暮らしを守れないという感覚は、政党政治への不信につながります。経済問題は、後の政治運動や軍人に対する社会の評価にも影響しました。

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