政党だけでなく、軍・社会運動・民衆も政治を動かした
1900年から1913年までの政治は、立憲政友会が勢力を伸ばした過程だけでは説明できません。
政党は、法律と予算を決める衆議院の基盤として、政府運営に欠かせない存在になりました。その一方で、軍、官僚、貴族院、元老は、選挙とは異なる仕組みによって政治へ影響を与えています。
工業化と都市化が進むと、労働条件、貧富の差、普通選挙が政治課題になりました。社会主義者は、議会、新聞、労働運動を通じた改革を主張します。日露戦争後には、新聞と大衆集会を通じて、多くの都市民衆が政府へ意思を示しました。
さらに、日英同盟、日露戦争、韓国への支配拡大は、国内の財政、軍備、政党関係を動かします。
この時期には、四つの流れが並行していました。
| 流れ | 主な出来事 | 政治に与えた変化 |
|---|---|---|
| 政党政治 | 立憲政友会、桂園時代、大正政変、立憲同志会 | 政府有力者も、衆議院を支える政党基盤を必要とするようになった |
| 社会運動 | 社会民主党、平民社、日本社会党、赤旗事件、大逆事件 | 政治課題が自由・民権から、労働・貧困・社会構造へ広がった |
| 対外関係 | 北清事変、日英同盟、日露戦争、ポーツマス条約 | 戦争と講和が、財政、世論、政党と政府の関係を変えた |
| 植民地支配 | 日韓議定書、第2次日韓協約、統監府、韓国併合 | 日本の対外拡張が、軍事・外交・交通・国内政治と結びついた |
この記事では、日本政党史の第5回として、1900年の立憲政友会成立後から、1913年の立憲同志会結成までをたどります。
まず流れを確認|1900年から1913年まで
| 年 | 日本史上の主な出来事 | 政党史での意味 |
|---|---|---|
| 1900年 | 立憲政友会結成、第4次伊藤内閣成立 | 政府有力者と旧自由党系が、政府と衆議院を結ぶ政党を組織した |
| 1901年 | 社会民主党結成と結社禁止、星亨暗殺、第1次桂内閣成立 | 政友会の指導体制が変化し、社会問題を扱う新しい政治勢力も現れた |
| 1902年 | 日英同盟、第7回総選挙 | ロシアへの警戒とイギリスとの提携が、日露戦争前の外交基盤になった |
| 1903年 | 伊藤博文から西園寺公望へ政友会総裁交代、平民社結成 | 西園寺と原敬が政友会を支え、社会主義者は新聞を通じて非戦論を訴えた |
| 1904年 | 日露戦争開戦、日韓議定書 | 対外戦争と韓国への支配拡大が同時に進み、戦費と兵役が国民生活へ影響した |
| 1905年 | ポーツマス条約、日比谷焼打事件、第2次日韓協約 | 講和への不満から大衆運動が拡大し、韓国の外交上の自主性が大きく制限された |
| 1906年 | 第1次西園寺内閣、日本社会党、鉄道国有法、統監府、満鉄設立 | 政党を基盤とする内閣、社会主義政党、戦後の国家経営が並行した |
| 1907年 | 日本社会党結社禁止 | 議会政策と直接行動をめぐる論争の後、政府が社会主義政党を禁止した |
| 1908年 | 第2次桂内閣、赤旗事件 | 社会主義運動への弾圧が強まり、桂内閣は議会運営で政友会との協力を必要とした |
| 1909年 | 伊藤博文暗殺 | 韓国併合方針が決定された後、初代統監を務めた伊藤が安重根に暗殺された |
| 1910年 | 立憲国民党結成、大逆事件、韓国併合 | 旧改進党系が再編される一方、思想弾圧と植民地支配が強まった |
| 1911年 | 関税自主権回復、工場法公布、情意投合、第2次西園寺内閣 | 主権回復、労働者保護、政府と政友会の提携が進んだ |
| 1912年 | 明治天皇崩御、二個師団増設問題、第2次西園寺内閣総辞職、第3次桂内閣 | 軍部大臣現役武官制が、政党を基盤とする内閣の存続を左右した |
| 1913年 | 第一次護憲運動、大正政変、立憲同志会結成 | 政党と民衆運動が桂内閣を退陣へ追い込み、桂系の新政党構想が別の系譜を作った |
政党政治が発達した時期であることは確かです。しかし、政党だけが一方向に権力を強めたわけではありません。
衆議院の多数派、軍の大臣推薦、元老の首相推薦、貴族院の議決、官僚の行政運営、新聞と民衆運動が、それぞれ異なる方法で政治へ影響しました。この複数の権力がどう協力し、どこで衝突したのかが、この13年間を理解する中心になります。
1|立憲政友会は、どのような指導体制を作ったのか
1900年、伊藤博文は立憲政友会を結成し、第4次伊藤内閣を組織しました。
憲法制定と内閣制度を主導した政府側の政治家が、自ら組織した政党を議会基盤として政権を運営しようとしたのです。
前回までに見た政府と政党の関係は、次のように変化しました。
ただし、立憲政友会は結成直後から安定していたわけではありません。
有力指導者の星亨は、東京市会をめぐる汚職問題で逓信大臣を辞任し、1901年6月21日、東京市会議長在職中に暗殺されました。星は、自由党、立憲自由党、自由党、憲政党、立憲政友会と、旧自由党系の再編に一貫して関わった人物です。
星に代わって党組織の実務を担ったのが、原敬でした。
原は新聞記者、外務官僚を経て政界へ入り、1900年に政友会へ参加し、1902年に衆議院議員となります。原の強みは、地方組織、衆議院議員、官僚、党本部を結ぶ実務能力にありました。
1903年、伊藤は政友会総裁を西園寺公望に譲ります。伊藤自身は、元老や枢密院など国家機関での活動へ比重を移しました。西園寺は旧公家出身で、フランス留学の経験を持ち、『東洋自由新聞』にも関わった政治家です。政友会総裁でありながら、元老層とも深くつながっていました。
西園寺が総裁と首相を担い、原が党組織と議会運営を支える体制が、桂園時代の政友会を支えます。
2|工業化は、なぜ新しい政党と思想を必要としたのか
明治前半の主要な政治課題は、国会、憲法、選挙、民権でした。
しかし明治後半になると、工場の増加、労働者の増加、都市化、貧富の差が社会問題になります。政治的自由だけでなく、労働条件と経済的平等も議論されるようになりました。
1901年5月18日、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎、河上清らは社会民主党を結成します。
同党は、理想綱領で人類平等、軍備全廃、土地と資本の公有などを掲げました。行動綱領には、普通選挙、貴族院廃止、治安警察法廃止が含まれています。
自由民権運動が求めた政治参加をさらに広げるとともに、所有、軍備、社会構造まで変えようとしたのです。
政府が禁止命令を出したのは、結党当日ではなく2日後の5月20日でした。
同じ「社会民主主義」でも、時代によって内容が異なる
1901年の社会民主党を、現在一般に使われる社会民主主義と同じ内容で捉えることはできません。
現在の社会民主主義は、議会制民主主義を維持しながら、福祉、労働者保護、所得再分配を進める立場を指すことが多くなっています。1901年の社会民主党は、普通選挙や議会改革に加え、軍備全廃や土地・資本の公有も掲げていました。
また、当時の社会主義者も一つの方針でまとまっていたわけではありません。
| 主な考え方 | 政治を変える方法 |
|---|---|
| 議会政策 | 普通選挙を実現し、議会へ進出して制度を改める |
| 労働運動・大衆運動 | ストライキ、ボイコット、組織活動によって要求を実現する |
| 革命論 | 既存の国家・社会制度を根本から変える |
| 社会政策 | 国家が労働条件や貧困問題へ介入し、労働者を保護する |
| 無政府主義 | 国家などの強制的権力を批判し、自主的な協力による秩序を目指す |
政党が禁止されても、思想と人のつながりまで消えるわけではありません。
社会民主党に関わった人々は、平民社、平民新聞、日本社会党へ活動をつなぎました。
これは、自由党が解党した後も地方組織と人脈が残った経過と共通しています。組織の禁止や解散だけで、要求そのものがなくなるわけではありません。

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