3|日英同盟から日露戦争へ、国内政治はどう動いたのか
1900年、中国で義和団が外国勢力の排斥を掲げ、北京の外国公使館を包囲しました。清国政府も列強へ宣戦し、日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの8か国が出兵します。義和団事件、または北清事変と呼ばれる出来事です。
事変後、ロシア軍は満州へ進出し、撤兵を進めませんでした。日本政府は、ロシアが満州から朝鮮へ影響力を広げることを警戒します。
日本政府の対ロシア政策は、初めから一つに決まっていたわけではありません。
伊藤博文らは、ロシアの満州における優越的地位を日本が一定程度認め、その代わりに日本の韓国における優越的地位をロシアへ認めさせる構想を検討しました。一般に満韓交換論と呼ばれます。
もう一つの選択肢が、イギリスとの提携でした。
1902年1月30日、日本とイギリスは日英同盟を結びます。日本はロシアの満州・朝鮮進出を警戒し、イギリスもロシアの東アジア進出を警戒していました。
第一次日英同盟では、一方が一国と戦争をした場合、同盟国は中立を守ります。複数国が敵側へ加わった場合には、同盟国も軍事援助を行う仕組みでした。
日本にとって重要だったのは、ロシアとの戦争にフランスなどが参戦することを抑えやすくなった点です。日清戦争後の三国干渉と同じ状況を避けるための外交的な備えでした。
当時の首相は、第1次桂太郎内閣の桂太郎でした。
開戦をめぐり、日本国内にも異なる意見があった
日本国内が開戦支持だけでまとまっていたわけではありません。
主な政党、多くの新聞、国権論者は対ロシア強硬論へ傾きました。一方、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三らは、それぞれ異なる立場から戦争へ反対します。
幸徳と堺は社会主義、内村はキリスト教と人道主義を基礎に非戦を主張しました。非戦論者を、すべて同じ思想の集団として扱うことはできません。
幸徳と堺は、『萬朝報』が開戦支持へ転じたことに反発して退社します。1903年に平民社を結成し、機関紙『平民新聞』で社会主義、非戦論、反帝国主義を訴えました。
議会政党とは別に、新聞と社会運動を通じて政治へ働きかける勢力が活動していたのです。
日露戦争は、国家財政と国際金融の戦いでもあった
戦費は、日本国内だけで調達できませんでした。
日本銀行副総裁の高橋是清は、ロンドン、ニューヨークなどの金融市場で外債を募集します。高橋は後に首相、蔵相、政友会総裁を務める人物です。
日本軍は主要な戦闘で勝利しました。しかし、日本政府は長期戦を続ける軍事的・財政的余力を失いつつありました。ロシアでも革命運動が拡大し、戦争継続が難しくなります。
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によって、両国は講和交渉へ進みました。
戦場で勝利することと、戦争を長期間続けられることは同じではありません。
政府が把握していた継戦能力と、新聞報道を通じて国民が抱いた勝利への期待には、大きな差がありました。この差が、講和後の政治運動へつながります。
4|日比谷焼打事件で、民衆は政治へどう関わったのか
1905年9月5日、日本とロシアはポーツマス条約を結びました。
日本全権は小村寿太郎と高平小五郎、ロシア全権はセルゲイ・ウィッテとロマン・ローゼンです。
日本は、韓国における優越的利益のロシアによる承認、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道利権、南樺太、ロシア沿岸の漁業権などを得ました。しかし、一般的な戦争賠償金は得られませんでした。
| 政府が見ていた現実 | 国民の一部が抱いた期待 |
|---|---|
| 軍事力と財政力が限界に近づいていた | 戦勝国なら戦争を続けられると考えた |
| 外債に依存し、これ以上の戦費調達が難しかった | 多額の賠償金を得られると期待した |
| 条約で権益を得て講和する必要があった | 戦死者、兵役、増税に見合う成果を求めた |
条約調印と同じ日、東京の日比谷公園で講和反対集会が開かれました。群衆は警察署、交番、新聞社を襲撃し、市内各地で暴動と放火が起こります。日比谷焼打事件です。
政府は戒厳に関する措置を実施し、軍隊を出動させて鎮圧しました。
この事件は、講和条約への不満だけを示したものではありません。政治参加の方法が変化したことも示しています。
政治は、政府、議会、政党だけで完結しなくなりました。
ただし、民衆運動をそのまま民主政治と同一視することもできません。日比谷焼打事件では、政治的要求とともに、暴力、放火、新聞社への襲撃が起きています。
大衆が政治へ参加することの力と、暴力を伴う運動の危険を、両方から見る必要があります。この経験は、第一次護憲運動と普通選挙運動へつながります。

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