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日本政党史⑤|桂園時代から大正政変まで

目次
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8|旧改進党系は、立憲国民党へどうつながったのか

立憲政友会だけでなく、旧改進党系の再編も続きました。

1910年、憲政本党を中心に立憲国民党が結成されます。中心人物の一人が犬養毅でした。

旧自由党系
自由党 → 立憲自由党 → 自由党 → 憲政党
↓
立憲政友会
旧改進党系
立憲改進党 → 進歩党 → 憲政党
↓ 分裂
憲政本党
↓
立憲国民党

犬養は新聞記者を経て立憲改進党の創立へ参加し、大同団結運動、進歩党、憲政本党、立憲国民党へ活動の場を移しました。後には革新倶楽部、立憲政友会へ進み、政友会総裁と首相を務めます。

ただし、政党の系譜を人物の移動だけで説明することはできません。

旧自由党系は、地方組織と衆議院議員を基盤に立憲政友会へまとまりました。旧改進党系は、都市部の支持、言論人、商工業者との関係を持ちながら、憲政本党と立憲国民党へ進みます。

この二つの系譜は、大正政変で一時協力します。その後、立憲国民党から離れた一部の政治家が、桂太郎の新党構想へ参加しました。

9|大正政変で、制度と世論は内閣をどう倒したのか

大正政変は、軍の制度的権力が政党を基盤とする内閣を倒し、その直後に、政党と民衆運動が軍・官僚系の内閣を倒した政治危機です。

この二つが、約2か月の間に続けて起きました。

二個師団増設問題が、第2次西園寺内閣を倒した

1911年に成立した第2次西園寺内閣は、立憲政友会を基盤とし、党内では原敬が重要な役割を果たしました。

陸軍は、韓国併合後の朝鮮防衛とロシアへの警戒を理由に、朝鮮へ2個師団を増設するよう求めます。西園寺内閣は、日露戦争後の財政負担を理由に行政・財政整理を優先し、増設要求を受け入れませんでした。

これは、軍事上必要だと陸軍が考えた政策と、国家財政の制約との衝突でした。

1912年11月30日、陸軍大臣の上原勇作は、増設案が閣議で採用されなかったため辞職します。陸軍は後任の陸軍大臣を推薦しませんでした。

1900年に定められた軍部大臣現役武官制では、陸軍大臣と海軍大臣を現役の大将・中将から任命するとされていました。陸軍が候補を出さなければ、陸軍大臣を置けず、内閣を維持できません。

12月5日、第2次西園寺内閣は総辞職しました。

陸軍が2個師団増設を要求
↓
西園寺内閣が財政上の理由で拒否
↓
上原勇作陸相が辞職
↓
陸軍が後任を推薦しない
↓
軍部大臣現役武官制により陸相を任命できない
↓
第2次西園寺内閣が総辞職

衆議院の多数党を基盤とする内閣が、選挙とは別の制度によって存続できなくなりました。軍が、政党とは異なる制度的権力を持っていることが明確に示されたのです。

ただし、陸軍を一つの意思で動く集団として描くことはできません。

陸軍内でも増師要求の進め方には意見の違いがありました。山県有朋と寺内正毅は、最終的には政友会との妥協も検討しています。一方、桂太郎はこの問題を政界復帰へ利用しようとしました。

第3次桂内閣は、なぜ「宮中府中の別」を批判されたのか

1912年7月、明治天皇が崩御し、大正へ改元されました。同年12月、桂太郎が3度目の首相に就任します。

桂は首相就任前、内大臣兼侍従長という宮中の職にありました。

宮中府中の別とは、天皇と皇室に関わる宮中の職務と、政府が政治を行う府中の職務を区別すべきだという考えです。

世論から見ると、陸軍が政党内閣を倒し、その直後に宮中の職にあった桂が首相になりました。桂が宮中の地位を政治へ利用し、元老、藩閥、軍人勢力による政治を続けようとしていると受け取られたのです。

第一次護憲運動では、政党・新聞・市民が結びついた

第3次桂内閣に対し、第一次護憲運動が全国へ広がりました。

中心人物は、立憲政友会の尾崎行雄と、立憲国民党の犬養毅です。両党は、旧自由党系と旧改進党系という異なる系譜に属していましたが、桂内閣へ反対するため協力しました。

スローガンは、憲政擁護・閥族打破です。

閥族は、藩閥、官僚、軍人など、選挙によらない人脈によって権力を持つ勢力を批判的に表した言葉です。正式な政府組織の名称ではありません。

護憲運動では、政党政治家だけでなく、多くの市民が全国の集会と街頭運動へ参加しました。新聞と雑誌の普及によって政治情報を得る人が増えたこと、日比谷焼打事件後に都市民衆の政治参加が拡大したことが背景にあります。

立憲政友会・尾崎行雄
+
立憲国民党・犬養毅
+
新聞・雑誌
+
全国の集会と街頭運動
↓
憲政擁護・閥族打破
↓
第3次桂内閣が53日で総辞職

1913年2月には数万人規模の群衆が国会周辺へ集まりました。第3次桂内閣は、成立から53日で総辞職します。この一連の政治危機が大正政変です。

桂太郎も、自らの政党を必要とした

護憲運動に対抗するため、桂は新しい大政党を作ろうとしました。

軍、官僚、貴族院を基盤としてきた桂も、衆議院に政友会と対抗できる政党基盤がなければ、内閣を安定して運営できないと判断したのです。

大石正巳、河野広中、島田三郎、武富時敏、箕浦勝人など、立憲国民党などから離れた政治家が新党構想へ参加しました。

これは、伊藤博文が立憲政友会を組織したときと共通する判断です。

伊藤博文
政府運営には衆議院の安定した支持が必要
↓
1900年 立憲政友会
桂太郎
政友会へ対抗し、内閣を支える政党が必要
↓
1913年 立憲同志会構想

桂は1913年2月に新党構想を発表しましたが、大正政変で内閣を失い、同年10月に死去します。それでも12月23日、加藤高明を中心に立憲同志会が正式に結成されました。

立憲同志会
↓
憲政会
↓
立憲民政党

ここに、立憲政友会と並ぶ政党系譜が作られます。

政党・軍・官僚・世論を無視できない政治へ変わった

1900年から1913年までの変化を、政党政治の発達という視点から整理します。

1900年 伊藤博文が立憲政友会を組織する
↓
西園寺公望と原敬を中心とする指導体制が作られる
↓
工業化により、労働・貧困・社会主義が政治課題になる
↓
日英同盟・日露戦争・ポーツマス条約
↓
日比谷焼打事件で新聞と都市民衆が政治へ大きな圧力を加える
↓
韓国への支配拡大と植民地統治
↓
桂と西園寺が異なる政治基盤を調整する桂園時代
↓
軍部大臣現役武官制により第2次西園寺内閣が総辞職
↓
第一次護憲運動により第3次桂内閣が総辞職
↓
桂の新党構想を引き継ぎ、立憲同志会が結成される
1900年頃1913年頃
政府有力者が政党を議会運営へ利用しようとした政党基盤を持たない内閣は、世論と議会の反対で維持しにくくなった
政治参加は選挙権を持つ少数の男子と政党中心だった新聞、大衆集会、街頭運動が内閣の存続へ影響した
自由・民権・国会が主要な政治課題だった労働、貧困、社会主義、植民地、軍の権限が大きな政治課題になった
軍部大臣現役武官制が政党政治を制約する可能性はまだ表面化していなかった陸軍が後任大臣を出さないことで、政党を基盤とする内閣が総辞職した
旧自由党系と旧改進党系が主要な二つの流れだった立憲政友会と、立憲同志会から憲政会へ続く系譜が並ぶ見通しができた

1912年12月には、軍の制度的権力が政党を基盤とする内閣を倒しました。1913年2月には、政党、新聞、市民運動が軍・官僚系の内閣を倒します。

どちらか一方だけが政治を支配したのではありません。政党、軍、官僚、元老、貴族院、新聞、民衆が、それぞれ異なる基盤から政府へ影響を与えました。

そして、軍と官僚を主な基盤としてきた桂太郎まで、自らの政党を必要としました。帝国議会を運営する以上、政府有力者も政党と衆議院を政治の外へ置くことができなくなったのです。

ただし、大正政変によって政党政治への制約がなくなったわけではありません。

軍部大臣現役武官制、治安警察法、貴族院と枢密院など選挙によらない機関、植民地統治は次の時代にも続きます。大正デモクラシーが政党政治と政治参加を広げる可能性と、それを制約する制度は、どちらも1900年から1913年までの政治のなかにありました。

現代への学び|制度上の権限と世論の力を分けて考える

大正政変では、制度と世論が別の方法で内閣を倒しました。

軍部大臣現役武官制は、陸軍が後任大臣を推薦しないことで、内閣を存続できなくする力を持ちました。これは、法令と人事権に基づく制度上の力です。

第一次護憲運動では、政党、新聞、集会、街頭運動が桂内閣へ圧力を加えました。こちらは、多数の人が意見を共有し、政治家へ示すことで生じる世論の力です。

制度は安定した政治を支える一方、特定の組織へ強い拒否権を与えることがあります。世論は政治を動かす一方、暴力や単純な敵味方の区分へ進む危険もあります。

政党史を学ぶと、選挙結果と議席だけでなく、誰が大臣を選べるのか、どの組織が政策を止められるのか、新聞と集会がどのように政治へ影響するのかを確認する必要があると分かります。

次回予告

次回は、1913年から1918年までを扱います。

第一次世界大戦、大戦景気、対華二十一か条要求、寺内正毅内閣、米騒動を経て、政党、軍、官僚、民衆の関係はどう変わったのでしょうか。

立憲同志会から憲政会へ続く動きと、米騒動後に原敬が本格的な政党内閣を組織するまでをたどります。

日本史と政党再編の二つの流れから読み直す

戦争、外交、植民地支配、社会運動を確かめる場合は「日本史の流れ」、政党の指導体制と二つの政党系譜を追う場合は「政党史の流れ」へ進んでください。

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参考資料・出典

オブシディアン解説

  • 「05|解説 桂園時代から大正政変へ(1900-1913)」

書籍

  • 大石学監修『世界のなかの日本の歴史 一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、200〜246頁

国立国会図書館

国立公文書館

外務省外交史料館・税関

韓国国史編纂委員会

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