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日本政党史⑤|桂園時代から大正政変まで

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5|日露戦争後、日本の対外支配はどう拡大したのか

日露戦争の結果は、韓国の主権と政治体制へ直接影響しました。

1904年の日韓議定書と第一次日韓協約を経て、1905年11月に第2次日韓協約が結ばれます。日本は韓国の外交を監理する権限を持ち、韓国に統監を置くことになりました。韓国の外交上の自主性は大きく失われます。

京城に統監府が置かれ、初代統監には伊藤博文が就任しました。

国内で憲法と政党政治を整えた人物が、朝鮮半島では日本の支配体制を作る中心になったのです。この二つの役割を切り離して、伊藤を評価することはできません。

1906年には、南満州鉄道株式会社が設立されます。満鉄は、鉄道、炭鉱、港湾、調査を担い、日本政府の満州政策と密接に結びついた国策会社でした。

同じ年、国内では鉄道国有法が成立し、主要な私鉄が国有化されます。日露戦争では、兵員と物資の輸送が戦争遂行に大きく関わりました。戦後の国家運営でも、軍事、外交、鉄道、産業は相互に関係していました。

韓国への支配は、段階的に強められました。

1904年 日韓議定書・第一次日韓協約
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1905年 第2次日韓協約
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1906年 統監府設置、伊藤博文が初代統監に就任
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1907年 高宗退位、第三次日韓協約、韓国軍解散
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1909年7月 日本政府が韓国併合方針を決定
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1909年10月 安重根が伊藤博文を暗殺
↓
1910年8月 韓国併合条約調印・公布

伊藤暗殺が起きたから韓国併合が決まった、と説明することはできません。日本政府が併合方針を決定したのは暗殺前です。日本による支配強化に対し、韓国では外交活動、反対言論、義兵闘争、独立運動が行われました。

1910年8月22日に韓国併合条約が調印され、8月29日に公布されます。朝鮮総督府が置かれ、朝鮮は1945年まで日本の植民地統治下に置かれました。

一方、1911年2月21日、小村寿太郎外相のもとで日米通商航海条約が調印されます。日本は、幕末の不平等条約で制限されていた関税自主権を回復しました。

日本は条約改正によって自国の主権を回復する
+
韓国の外交権と統治権を奪い、植民地として支配する

主権回復と植民地化が近い時期に進んだことは、明治後期の外交を考えるうえで欠かせません。

6|桂園時代では、二つの政治基盤がどう共存したのか

1906年、第1次桂内閣の後を受けて、西園寺公望が首相に就任しました。

桂太郎、西園寺公望、桂太郎、西園寺公望と政権が交代した時期は、桂園時代と呼ばれます。

これを、桂と西園寺が個人的な合意によって順番に首相を務めた時代と理解すると、政治構造を捉えられません。

桂太郎の主な基盤西園寺公望の主な基盤
山県有朋系の人脈立憲政友会
陸軍衆議院の議員
官僚地方の政党組織
貴族院選挙を通じた議席
選挙によらない政治基盤選挙と議会に基づく政治基盤

二人の間に、固定的な連立協定があったわけではありません。しかし、どちらも相手の政治基盤を無視できませんでした。

政党だけでは、軍、官僚、貴族院、元老を動かせません。官僚と軍だけでは、予算と法律に必要な衆議院の協賛を安定して得られません。

衆議院の多数を持つ政友会
+
軍・官僚・貴族院・元老へ影響を持つ桂と山県系
↓
政策と政権交代をめぐる調整

対立と協力の両方があったことが、桂園時代の特徴です。

1905年末、西園寺は桂へ書簡を送り、次の内閣の閣僚候補について意向を確認しました。第1次西園寺内閣で政友会から入閣したのは、西園寺を含め3人でした。

政友会総裁が首相を務めましたが、政友会だけで構成した内閣ではありません。1898年の隈板内閣、1906年の第1次西園寺内閣、1918年の原敬内閣を並べると、政党内閣の発達には段階があったことが分かります。

第2次桂内閣も、初めは各党へ同じ距離を取る一視同仁を掲げました。しかし、予算審議が難しくなると、衆議院の多数を占める政友会との提携を強めます。

1911年1月、桂は政友会との関係を情意投合と表現しました。桂は政党政治家ではありませんでしたが、政党の協力なしに安定した議会運営を続けることは難しかったのです。

7|社会主義運動は、なぜ分裂し、弾圧されたのか

日露戦争後、社会主義者は合法政党の結成をもう一度試みました。

1906年、堺利彦、片山潜、西川光二郎らが日本社会党を結成します。

しかし党内では、議会政策と直接行動のどちらを重視するかをめぐって論争が起きました。

議会政策派は、普通選挙を実現し、議会へ進出して制度を改めることを重視します。直接行動派は、議会政治の限界を指摘し、労働者によるストライキ、ボイコット、大衆運動を重視しました。

幸徳秋水は、日露戦争後の渡米経験などを経て直接行動論へ傾き、無政府主義へ近づきます。

ここでいう直接行動は、必ず暴力を意味する言葉ではありません。また、無政府主義も無秩序を求める思想ではなく、国家などの強制的権力を批判し、人々の自主的な協力による社会を目指す思想です。

1907年2月、日本社会党の第2回大会で直接行動論が強まり、党則も急進化しました。政府は2月22日、同党へ結社禁止命令を出します。

1908年には赤旗事件が起きました。大杉栄、荒畑寒村らが「無政府共産」と書かれた赤旗を掲げて警察と衝突し、堺利彦、山川均を含む14人が検挙されます。

1910年からは、大逆事件の検挙が始まりました。

宮下太吉ら一部の活動家の間で、爆弾を用いた天皇襲撃計画が検討されていました。捜査は広い範囲へ及び、幸徳秋水を含む26人が起訴されます。24人に死刑判決が出され、そのうち12人は無期刑へ減刑されました。残る12人は1911年1月に処刑されます。

一部の人物の間に襲撃計画があったことと、起訴された全員がその計画へ関与していたかどうかは、分けて考えなければなりません。後の研究では、事件と直接関係しなかった人物まで起訴されたとして、裁判の公正さが強く批判されています。

大逆事件には、暗殺計画の摘発だけでなく、政府が社会主義と無政府主義を広く弾圧した側面があります。

社会民主党結成
↓ 結社禁止
平民社・平民新聞
↓
日本社会党結成
↓ 党内で議会政策と直接行動が対立
日本社会党結社禁止
↓
赤旗事件
↓
大逆事件
↓
社会主義者への監視と弾圧が強まる「冬の時代」

公然とした社会主義運動は難しくなりました。ただし、労働問題と社会主義思想がなくなったわけではありません。第一次世界大戦後、労働運動と社会主義運動は再び活発になります。

1911年には、工場法も公布されました。工場法は、年少者の就業制限、女性・年少者の労働時間制限、業務上の事故への扶助などを定め、主として常時15人以上を使用する工場を対象としました。施行は1916年です。

社会主義者を弾圧する一方で、政府も工業化が生んだ労働問題へ対応する必要を認めました。思想統制と労働者保護が、同じ時期に進んでいます。

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