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韓国併合とは?なぜ日本は韓国の主権を奪ったのか|1910年までの流れ

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1910年、日本は大韓帝国だいかんていこくを併合し、朝鮮半島を植民地として統治し始めました。しかし、韓国併合は1910年に突然決まった出来事ではありません。

日本は戦争と外交を通じて韓国への介入を強め、外交権、内政上の権限、軍事力を段階的に奪っていきました。一方、韓国では皇帝、官僚、知識人、軍人、農民などが、外交や言論、武装闘争によって主権を守ろうとしました。

この2ページでは、日本政府はなぜ併合へ進んだのか、韓国では誰がどう抵抗したのか、欧米列強はなぜ止めなかったのかを、1876年から1910年までの流れで整理します。

目次

韓国併合をひとことで表すと

韓国併合とは、1910年に日本が大韓帝国の統治権を取り込み、韓国を植民地とした出来事です。

日本と韓国の代表者は1910年8月22日に「韓国併合ニ関スル条約」へ調印し、同月29日に公布しました。韓国という独立国家は消滅し、日本は朝鮮総督府を置いて統治します。

「併合」という言葉だけでは見えにくいこと日本側の公文書では「併合」と呼ばれましたが、韓国側から見れば国家の主権を奪われた植民地化です。条約名だけでなく、その前に軍事的圧力と権限の剥奪が重ねられていた過程を見る必要があります。

なぜ日本は朝鮮半島を重視したのか

明治政府は朝鮮半島を、日本列島の安全に深く関わる地域と考えました。朝鮮が清しんやロシアなどの強国の影響下に入れば、日本も脅かされるという安全保障上の警戒があったためです。

しかし、安全保障への不安と、近隣国の主権を制限する政策は同じものではありません。日本政府は「朝鮮の独立」を掲げながら、清とロシアを排除した後には、自らが韓国の外交と内政を掌握する側へ移りました。

この変化を理解するには、欧米列強が植民地や勢力圏を広げていた帝国主義の時代背景と、日本政府がその国際秩序へ加わろうとした選択を分けて考えることが大切です。

開国から保護国化まで|1876〜1905年

1876年|日朝修好条規江華島事件こうかとうじけんの後、日本は朝鮮を開国させました。条約は朝鮮を「自主の国」と定める一方、日本人の領事裁判権などを認めさせた、朝鮮側に不利な内容でした。
1894〜1895年|日清戦争日本と清は朝鮮への影響力をめぐって戦いました。日本の勝利後、清は朝鮮の「独立」を認め、清の宗主権は否定されます。しかし、朝鮮から清の影響を除いた日本は、自国の介入を強めました。
1895年|閔妃ミンビ殺害朝鮮王妃の閔妃(のちの明成皇后めいせいこうごう)が、日本公使館関係者らが関与した一団に殺害されました。朝鮮社会の反日感情を強めた重大事件です。
1897年|大韓帝国の成立高宗コジョンは皇帝に即位し、国号を大韓帝国としました。清から独立した主権国家であることを内外に示し、自主的な近代化を進めようとします。
1904年|日韓議定書と第一次日韓協約日露戦争中、日本は韓国領内で軍事行動を行える体制を整え、韓国政府へ日本政府が推薦する財政・外交顧問を置かせました。
1905年|第二次日韓協約日本は韓国の外交権を奪い、日本の統監府を置くことを認めさせました。韓国では「乙巳条約ウルサじょうやく」とも呼ばれ、締結の強制性や有効性をめぐる問題が指摘されています。

第二次日韓協約で何が変わったのか

外交権を失うことは、外国との条約や交渉を韓国政府自身で行えなくなることを意味します。韓国は国号、皇帝、政府を残していましたが、国際社会に対して主権国家として行動する力を大きく制限されました。

日本政府が得た権限韓国の外交を管理し、各国との関係を日本側が扱う体制をつくりました。
韓国政府が失った権限自国の意思で外交関係を結び、国際社会へ直接訴える道が狭められました。

1906年には統監府が開かれ、伊藤博文いとうひろぶみが初代韓国統監となります。ここから日本の介入は、外交だけでなく韓国の内政へ深く及んでいきます。

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