統監府から併合まで|1906〜1910年
韓国では誰が、どのように抵抗したのか
韓国側の行動は一つではありません。高宗は国際会議へ密使を送り、主権回復を外交的に訴えました。官僚や知識人のなかには協約へ反対して辞職、上疏、言論活動を行う人々がいました。自ら命を絶って抗議した人もいます。
各地の義兵は武装して日本の支配に抵抗しました。1907年の韓国軍解散後には元兵士も合流し、闘争が拡大します。安重根は伊藤博文を韓国侵略の責任者と捉え、暗殺に及びました。
一方、李完用ら日本との協力を選んだ韓国の政治家や、併合を推進した一進会も存在しました。韓国社会を「全員が同じ選択をした」と描かず、それぞれの立場と、日本の軍事・政治的圧力の大きさを同時に見る必要があります。
欧米列強はなぜ韓国併合を止めなかったのか
当時の国際社会では、列強が植民地や勢力圏を相互に調整していました。イギリスは日英同盟の改定で、日本が韓国で持つ優越的な政治・軍事・経済上の利益を認めました。アメリカの桂・タフト覚書も正式な条約ではありませんが、フィリピンと韓国をめぐる双方の認識を記録しています。
日本はロシアやフランスとも利害を調整しました。列強は韓国の主権より自国の安全保障や植民地権益を優先し、保護国化と併合を阻止しませんでした。高宗の密使がハーグで訴えを届けられなかったことは、その力関係を象徴しています。
伊藤博文の死が併合を決めたのか
伊藤博文の暗殺だけを、韓国併合の直接原因とすることはできません。伊藤は統監就任当初、直ちに併合することへ慎重でした。しかし日本政府は1909年7月に併合方針を閣議決定しており、伊藤の暗殺はその約3か月後です。
したがって、「伊藤という最後の歯止めが失われたため、併合が決まった」と単純化すると時系列が逆になります。伊藤の立場の変化、日本政府内の強硬論、義兵闘争への対応、列強との利害調整が重なった政策過程として捉えるのが適切です。
併合後、朝鮮の統治はどう変わったのか
統監府は朝鮮総督府へ改組され、総督は立法・行政・司法に大きな権限を持ちました。韓国の人々は日本の植民地統治の下に置かれ、政治参加、言論、集会などを厳しく制限されます。
鉄道、学校、医療、産業などの制度や施設も整備されましたが、それを「近代化の提供」だけで評価することはできません。政策を決める主権を朝鮮の人々が失い、整備された交通や経済制度も日本の統治と資源動員を支える役割を担ったからです。
立場を変えて韓国併合を見る
韓国併合から考えたいこと
日本は幕末以来、不平等条約の改正と国家の主権回復を目指しました。その日本が、1910年には隣国の主権を奪う側へ回ります。翌1911年、日本は関税自主権を回復し、欧米との不平等条約改正を完了しました。
主権回復と植民地化がほぼ同じ時期に進んだことは、明治時代の外交を理解する重要な手がかりです。「自国を守る」という目的が、どこで他国を支配する政策へ変わったのか。韓国併合は、その境界を時系列と複数の立場から考えるべき出来事です。
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参考資料
- 大石学監修『世界のなかの日本の歴史 一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、240〜245頁
- 外務省外交史料館「日本外交文書」および「日韓条約及び諸協定関係」所蔵史料目録
- 韓国国史編纂委員会「韓国史データベース」「우리역사넷」韓国国権侵奪・義兵闘争・韓国併合関係項目

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