第1次西園寺内閣――政党はどこまで政府を動かせたのか
1906年1月、西園寺公望が首相となりました。政友会からは西園寺のほか、原敬と松田正久が入閣します。
この内閣が進めた代表的な政策が鉄道国有化です。日清・日露戦争で鉄道の軍事・物流上の重要性が明らかになり、路線や運賃を統一的に管理する必要も高まっていました。桂内閣で進められた方針を西園寺内閣が引き継ぎ、1906年の鉄道国有法により主要な民営鉄道17社が買収されました。
ここにも桂園時代の特徴が表れています。政権が交代しても、重要政策のすべてを白紙に戻すのではなく、前の内閣から引き継いで実現することがありました。
赤旗事件と第1次西園寺内閣の終わり
西園寺は社会主義運動に比較的寛容だと見られていました。しかし内務大臣の原は、1907年に日本社会党へ解散命令を出しています。西園寺内閣を「自由放任の政権」とみるのは正確ではありません。
1908年、荒畑寒村や大杉栄らと警官隊が衝突する赤旗事件が起こると、山縣や桂らは政府の対応を批判しました。財政問題や閣内事情も重なるなか、第1次西園寺内閣は総辞職し、第2次桂内閣が成立します。
第2次桂内閣――政友会と「情意投合」へ
第2次桂太郎内閣は、当初、特定の政党へ偏らない一視同仁を掲げました。それでも予算案の審議が難しくなると、政友会との提携を強めます。
1911年、桂は政友会との関係を情意投合と表現しました。これは同じ党になったという意味ではなく、政府と政友会が政策と議会運営で協力する姿勢を明確にしたものです。
この内閣の時期、日本は1910年に韓国併合を行い、韓国の主権を奪って植民地統治を始めました。国内では1910年の大逆事件をきっかけに社会主義者への監視と弾圧が強まりました。
一方、外務大臣小村寿太郎の交渉により、1911年には関税自主権の回復が実現します。桂園時代は、政党政治の前進だけでなく、帝国化、思想統制、主権回復が同時に進んだ時代でもありました。
第2次西園寺内閣――二個師団増設をめぐる対立
1911年8月、第2次西園寺内閣が成立しました。日露戦争後の国は巨額の軍事費と国債を抱え、政府には財政整理が求められていました。
ところが陸軍は、朝鮮に置く二個師団の増設を要求します。西園寺内閣が財政上の理由から認めなかったため、陸軍大臣上原勇作は1912年11月に単独で辞職しました。
陸軍が後任の大臣を推薦しなかったため、内閣を維持できず、12月5日に総辞職します。この制度上の圧力は、軍が内閣の存続へ強い影響を与えられることを示しました。
国立国会図書館の解説では、山縣有朋や寺内正毅は政友会との妥協も考えていた一方、政界復帰を目指す桂が増師問題を利用し、上原に強硬な主張を求めたとされています。
第3次桂内閣は、なぜ強い反発を受けたのか
西園寺の後を受け、1912年12月21日に第3次桂内閣が成立します。ところが桂は直前まで、天皇の側近で政治から距離を置くべき内大臣兼侍従長の地位にいました。
陸軍が西園寺内閣を倒し、宮中にいた桂が再び首相になったように見えたため、「軍部と藩閥が議会を軽視している」という反発が広がります。
政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅らは「憲政擁護・閥族打破」を掲げました。東京だけでなく全国で集会が開かれ、新聞、議員、市民が参加する第一次護憲運動へ発展します。
53日で退陣――桂園時代の終わり
桂は政友会に対抗する新党、立憲同志会の結成を進めて議会を乗り切ろうとしました。しかし反発は収まらず、1913年2月には数万人が国会議事堂を取り囲みます。
第3次桂内閣は、成立からわずか53日で総辞職しました。この一連の政変を大正政変と呼びます。
桂内閣を倒したのは、次の元老が決めたからではありません。議会政党と新聞、各地の集会、街頭に集まった人々の圧力でした。政治を動かす主体に「世論」が加わったことが、桂園時代の終わりを重要な転換点にしています。
桂園時代に進んだこと、残ったこと
進んだこと
政党が予算・人事・政策決定へ関わり、政府も衆議院多数派との協力を前提に政権を運営するようになりました。
残ったこと
首相選定への元老の影響、軍部の独自性、貴族院の力、限られた選挙権は残り、国民が直接政権を選ぶ制度ではありませんでした。
桂園時代は、藩閥政治が消えて政党政治へ一気に切り替わった時代ではありません。軍・官僚・元老・貴族院と、政党・衆議院・世論が並び立ち、協力しなければ政治を続けられなくなった過渡期でした。
その後、政友会は地方組織と議会でさらに力を伸ばし、1918年の原敬内閣で本格的な政党内閣を実現します。桂が作ろうとした立憲同志会も、のちの憲政会・立憲民政党へつながりました。

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