幕末の1858年、日本は欧米諸国と通商条約を結びました。しかし、その内容は日本の領土で起きた事件を日本の裁判所だけでは裁けず、輸入品にかける税率も自由に決められないものでした。
この不平等な状態を改めるまでに、日本は半世紀以上を費やします。交渉は岩倉使節団から寺島宗則、井上馨、大隈重信、陸奥宗光、小村寿太郎へ引き継がれ、そのたびに国の制度や外交方針も変わりました。
なぜ改正は何度も失敗し、1894年になって領事裁判権の撤廃が決まったのでしょうか。1858年から1911年までを時系列でたどります。
条約改正をひとことで表すと
条約改正とは、幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約を見直し、日本にも相手国と同じように裁判と関税を決める権利を取り戻そうとした外交交渉です。
改正の中心となったのは、次の二つでした。
| 問題 | 何が不平等だったのか | 大きな転機 |
|---|---|---|
| 領事裁判権 | 日本にいる外国人が罪を犯しても、原則としてその国の領事が裁判した | 1894年に撤廃を定め、1899年に実施 |
| 関税自主権 | 日本が輸入品の関税率を自国だけで決められなかった | 1911年に回復 |
一般には領事裁判権の問題を「治外法権」と呼ぶことが多いため、この記事でも読者になじみのある言葉として使います。ただし、条約改正で直接問題となったのは、外国領事が自国民を裁く領事裁判権でした。
不平等条約そのものの仕組みを先に確認したい方は、こちらの記事から読むと流れがつかみやすくなります。
始まりは1858年|なぜ不平等な条約を結んだのか
1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結びました。これらはまとめて安政五カ国条約と呼ばれます。
当時の幕府は、欧米諸国の軍事力を前に開国を迫られていました。国内には西洋式の統一的な法典や裁判制度がまだ整っておらず、関税についても相手国との条約で税率を定めることになります。
明治政府が受け継いだのは、単なる「約束」ではありませんでした。複数の国との条約を、相手国の同意を得ながら改めなければならないという難しい外交課題でした。
なぜ条約改正はすぐに進まなかったのか
改正が難しかった理由は、「日本の法律が信用されていなかったから」だけではありません。
- 相手国の利益:領事裁判権や低い関税率は、外国人や外国商人に有利だった
- 法制度の違い:欧米諸国は、日本の刑法・民法・裁判制度が自国民を公正に扱うかを問題にした
- 交渉相手の多さ:一国だけでなく、条約を結んだ各国との調整が必要だった
- 列強間の力関係:イギリス、ロシアなどの利害が変わると、日本への外交姿勢も変わった
さらに当時の国際社会には、欧米の制度や文化を「文明」の基準とし、アジアやアフリカを低く見る考えが広がっていました。日本は法制度を整えるだけでなく、その不平等な国際秩序のなかで交渉しなければなりませんでした。
条約改正の流れ|失敗はどのように引き継がれたのか
1871〜73年|岩倉使節団——交渉より先に国の差を知る
明治政府が早くから条約改正を重要課題にしていたことは、1871年に岩倉使節団を欧米へ送ったことからも分かります。岩倉具視を大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら政府の中心人物が参加しました。
使節団は条約改正の予備交渉を進めようとしましたが、十分な準備がなく、正式な交渉に必要な全権委任状も持たずに出発していました。大久保と伊藤がいったん帰国して委任状を取りに戻ったものの、改正には至りません。
しかし失敗だけが残ったわけではありません。使節団は欧米の工場、学校、軍隊、議会、裁判所などを視察し、日本との国力や制度の差を実感しました。条約を変えるには、交渉と同時に国内の仕組みをつくり直す必要がある。その認識が、その後の近代化政策を後押しします。
岩倉使節団が欧米で何を見たのかは、個別記事で詳しく紹介しています。
1870年代後半|寺島宗則——関税から改めようとする
外務卿の寺島宗則は、関税自主権の回復を優先して各国と交渉しました。アメリカなどから一定の同意を得たものの、貿易上の利益を重視するイギリスとドイツが反対し、実現しませんでした。
この失敗は、一部の国だけと話をまとめても、主要国が反対すれば全体の改正につながらないことを示しました。
1880年代|井上馨——鹿鳴館と法制度を交渉材料にする
外務卿・外務大臣となった井上馨は、欧米諸国の代表を集めて条約改正会議を開きました。同時に、1883年に鹿鳴館を開館し、政府高官と外国の外交官が交流する場を設けます。
華やかな舞踏会ばかりが注目されますが、井上の交渉は文化の西洋化だけで進められたものではありません。外国人にも日本の法律を適用する代わりに、大審院などへ外国人判事を任用する案や、外国人が居留地の外でも住み、商業活動を行えるようにする内地開放が検討されました。
ところが、外国人判事の任用は「主権を取り戻すために、別の形で外国人を司法へ入れるのか」という強い反発を招きます。政府の法律顧問ボアソナードも反対し、自由民権派や世論の批判が高まりました。
鹿鳴館外交が目指したものと批判された理由を読むと、舞踏会と条約改正の関係がより具体的に分かります。
1886年|ノルマントン号事件——領事裁判への怒りが広がる
1886年10月、和歌山県沖でイギリス貨物船ノルマントン号が沈没しました。イギリス人らの乗組員は脱出した一方、日本人乗客25人は全員死亡します。
船長らを裁いたのは日本の裁判所ではなく、イギリス領事裁判所でした。最初の審理で全員無罪となったことは、日本の世論に大きな衝撃を与えます。再審で船長は有罪となりましたが、日本側が自国民の死亡事件を自ら裁けないという現実は変わりませんでした。
事件の詳しい経過は、ノルマントン号事件の記事で確認できます。
井上の改正案への反対運動はさらに強まり、1887年には条約改正交渉の中止、地租軽減、言論・集会の自由を求める三大事件建白が提出されました。井上は外相を辞任し、交渉は再び止まります。
1888〜89年|大隈重信——対等条約の先例と爆弾事件
井上の後を引き継いだのが外務大臣の大隈重信です。1888年、日本はメキシコと日墨通商修好条約を結びました。互いに領事裁判権を認めない対等な内容で、欧米諸国との改正へ向けた先例となります。
一方、大隈が進めた主要国との交渉には、外国人判事を大審院へ置く案が含まれていました。内容が新聞で報じられると、国内では不平等な妥協だという批判が噴き出します。
1889年10月18日、玄洋社の元社員・来島恒喜が大隈の馬車へ爆弾を投げました。大隈は右脚を失い、交渉も挫折します。条約改正は外国との交渉であると同時に、「どこまで譲歩を認めるのか」をめぐる国内政治の問題にもなっていたのです。
次のページでは、何度も止まった交渉を陸奥宗光がどのようにまとめ、1899年の実施と1911年の関税自主権回復へつなげたのかを見ていきます。

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