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条約改正とは?なぜ治外法権はなくなったのか

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陸奥宗光は、なぜ交渉をまとめられたのか

1892年、第2次伊藤博文内閣が成立し、陸奥宗光むつむねみつが外務大臣に就任しました。陸奥は前任者たちの失敗を踏まえ、外国人判事を任用する案を採らず、日本の裁判権を回復する対等条約を目指します。

陸奥の成功を「日本が日清戦争に勝ったから」と説明するのは、年代が合いません。日英通商航海条約の調印は1894年7月16日、日清戦争の最初の海戦は7月25日、宣戦布告は8月1日です。条約は、戦争の勝利より前に結ばれていました。

では、何が交渉を動かしたのでしょうか。

  • 交渉方針を絞った:陸奥は1893年に方針を定め、まずイギリス・アメリカ・ドイツとの対等条約を目指した
  • 国内制度が整ってきた:憲法、議会、裁判所、法典の整備が進み、日本法を外国人へ適用する条件が具体化した
  • イギリスの利害が変わった:ロシアの中央・東アジア進出を警戒し、日本との関係を重視する理由が強まった
  • 双方が交換条件を受け入れた:日本は領事裁判権の撤廃と引き換えに、居留地を廃止して外国人へ内地を開放した

ロシアは1891年からシベリア鉄道の建設を始めていました。世界各地に権益を持つイギリスにとって、ロシアのアジア進出は大きな警戒材料です。日本側の近代化だけでなく、列強間の力関係が変わったことも、交渉成立の重要な背景でした。


1894年7月16日|日英通商航海条約の調印

交渉の実務を担ったのは、駐英公使の青木周蔵あおきしゅうぞうでした。青木とイギリス外相キンバリーは、ロンドンで日英通商航海条約にちえいつうしょうこうかいじょうやくに調印します。

新条約で決まったこと内容
領事裁判権の撤廃イギリス人にも日本の法律と裁判権を適用する
最恵国待遇の相互化一方だけが利益を受ける仕組みを改め、互いに適用する
内地開放外国人居留地を廃止し、外国人の旅行・居住・商業活動を広く認める
実施までの猶予調印から5年後に実施する

条約改正は、日本だけが権利を取り戻して終わったのではありません。外国人が日本全国で活動できる内地開放と組み合わせた合意でした。5年間の準備期間には、法典や裁判制度を整え、新しい条約を実際に運用できる状態にする意味がありました。

イギリスとの妥結を受け、アメリカ、ドイツ、フランスなどとも同様の条約が結ばれます。改正条約は1899年7月17日に実施され、外国人居留地が廃止されるとともに、領事裁判権の撤廃が現実の制度として動き始めました。

参考:外務省外交史料館「日英通商航海条約 陸奥宗光と条約改正」


1894年にすべて終わったわけではない

領事裁判権の撤廃は大きな前進でした。しかし、輸入品の税率を日本が自由に決める関税自主権は、1894年の条約では完全に回復していません。

そのため、条約改正には二つの日付があります。

  • 1894年:日英通商航海条約に調印し、領事裁判権の撤廃を定めた
  • 1899年:改正条約を実施し、領事裁判権が実際になくなった
  • 1911年:関税自主権を回復し、幕末以来の条約改正が完了した

「治外法権がなくなった年」を尋ねる問題で1894年と1899年の両方を見かけるのは、前者が条約を結んだ年、後者が実施された年だからです。


1911年|小村寿太郎が関税自主権を回復する

1894年に結んだ条約は、1911年に満期を迎えます。外務大臣の小村寿太郎こむらじゅたろうは1910年から各国との新条約交渉を進め、翌1911年2月21日、アメリカと新しい日米通商航海条約を結びました。

続いてイギリス、フランス、ドイツなどとも新条約を結び、日本は関税率を自ら決める権利を回復します。1858年から続いた不平等条約改正は、ここで大きな完了を迎えました。

1911年の交渉と関税自主権の意味は、条約改正完了の記事で詳しくたどれます。

参考:外務省外交史料館「外交史料と近代日本のあゆみ」


条約改正の53年を時系列で整理する

年出来事結果・意味
1858年安政五カ国条約領事裁判権と関税率の制約を含む不平等条約を結ぶ
1871〜73年岩倉使節団予備交渉は進まず、欧米の制度と国力を調査
1870年代後半寺島宗則の交渉関税自主権の回復を目指すが、英独の反対で失敗
1883〜87年井上馨・鹿鳴館外交集団交渉と欧化政策を進めるが、外国人判事案への反発で挫折
1886年ノルマントン号事件領事裁判権への国民的な反発が拡大
1888年日墨通商修好条約アジア以外の国と結んだ対等条約の先例
1889年大隈重信遭難事件大隈が右脚を失い、条約改正交渉も挫折
1894年日英通商航海条約領事裁判権の撤廃を定める
1899年改正条約を実施領事裁判権を撤廃し、外国人居留地を廃止
1911年新通商航海条約関税自主権を回復し、条約改正が完了

条約改正は、日本をどのように変えたのか

条約改正によって、日本は国内にいる外国人へ自国の法律を適用し、輸入品の関税率を自ら決められるようになりました。国家の裁判権と通商政策を自国で運用するという意味で、主権の回復に欠かせない成果です。

ただし、「近代国家として努力したから、欧米に認められた」という一方向の物語だけでは足りません。交渉成立には、日本の法制度整備と外交官の働きに加え、イギリスとロシアの対立や日露戦争後の国際的な力関係も影響しました。

また、日本は自国が受けた不平等条約の改正を求める一方、朝鮮には領事裁判権を含む不平等な条約を認めさせ、のちに植民地支配へ進みました。自国の主権回復と、他国の主権を制限する動きが同じ時代に進んだことも、明治外交を考えるうえで欠かせません。


まとめ|条約改正は、一度の成功ではなく53年間の積み重ねだった

条約改正は、陸奥宗光一人の交渉や、戦争の勝利だけで達成されたものではありません。

岩倉使節団が欧米との差を知り、寺島宗則、井上馨、大隈重信が失敗と批判を経験し、憲法・議会・法典・裁判制度が整えられました。その蓄積と国際情勢の変化を捉えて陸奥宗光と青木周蔵が1894年の条約をまとめ、最後に小村寿太郎が1911年の関税自主権回復へつなげたのです。

条約改正の歴史から見えるのは、主権は宣言するだけで守られるものではなく、国内制度、外交交渉、国際情勢のすべてが結びついて形になるということです。

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