維新指導者の死と、官僚・政治結社の役割拡大
1874年から1878年にかけて、明治維新を進めた指導者たちが相次いで死亡し、政治指導者の構成が変わりました。
- 1874年、江藤新平が佐賀の乱後に処刑される
- 1877年、西郷隆盛が西南戦争で亡くなる
- 1878年、大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺される
政府側では、伊藤博文、山県有朋、井上馨、松方正義らの役割が大きくなります。政府の外では、板垣退助らが各地の政治結社を連携させ、全国組織を作る活動を進めました。
この時期には、政治の担い手と仕組みの両方が変化しました。
個人の人望や藩のつながりが政治に与える影響は残りましたが、官僚機構・地方議会・政治結社・新聞・政党の役割が大きくなりました。
地域組織から全国政党へ|自由党までの組織系統
自由党成立までの組織名は似たものが多く、最も混乱しやすい部分です。
最初に押さえておきたいのは、愛国公党、立志社、愛国社、国会期成同盟は、一つの組織が名前だけを変えたものではないということです。それぞれ目的と活動範囲が異なりますが、共通の参加者や活動経験は、後の全国組織と自由党の結成に引き継がれました。
一つの団体が改称したのではなく、人脈と経験が受け継がれた
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読み方:これは法的に同じ団体が順番に改称した図ではありません。地域組織、全国連合、請願組織で蓄積された人脈と政治経験が、自由党へ受け継がれた流れです。
愛国公党|政府を去った政治家による中央の結社
愛国公党は1874年、東京で板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが結成しました。明治六年政変で政府を去った中央政治家たちの結社で、民撰議院設立建白書を提出します。
しかし、江藤が佐賀の乱へ向かうなど、結成した人々の進路はすぐに分かれました。愛国公党は長く続く組織にはなりませんでしたが、議会開設要求を政治運動として公に示した点で重要です。
立志社|地域の問題と政治を結んだ高知の結社
立志社は1874年、板垣退助、片岡健吉、林有造らによって高知で結成されました。
政治活動だけを行う現代の政党とは異なり、教育、討論、士族の救済、商工業の振興などにも関わりました。その背景には、廃藩置県、秩禄処分、廃刀令などによって、旧武士である士族の生活と立場が大きく変わった問題がありました。
自由民権運動は、抽象的な政治思想だけで広がったわけではありません。地域の暮らしや失業、産業、教育と結びついたからこそ、人々にとって切実な運動になったのです。
愛国社|各地の結社をつなぐ全国組織
愛国社は1875年、大阪で作られました。目的は、各地で結成された政治結社を連携させ、複数の地域が参加する運動を進めることでした。
板垣が一時政府へ復帰したことなどから活動は停滞しますが、西南戦争後の1878年、立志社を中心に再興されます。武力による大規模な反政府運動が終わったあと、各地の結社を全国規模でつなぐ役割が、改めて重要になりました。
国会期成同盟|国会開設という目標へ力を集める
1880年、愛国社の大会を基礎に国会期成同盟が作られました。「期成」とは、目標の実現を目指すことです。国会期成同盟は、国会開設という具体的な目標へ全国の力を集める組織でした。
片岡健吉と河野広中らは、代表して国会開設の請願を政府へ提出しようとしました。もはや運動は高知だけのものでも、旧士族だけのものでもありません。各地の結社、地主、豪農、商工業者、知識人らが関わる全国運動になっていました。
政府が同じ1880年に集会条例を制定し、政治集会や結社への規制を強めたのは、それだけ運動が無視できない規模になったことの裏返しとも読めます。
「国会を作れ」から「どんな国家を作るか」へ
各地の政治結社が全国組織へ参加すると、次の問題が議論されました。
国会を開いたとして、そこで何を決めるのか。国民にはどのような権利があるのか。政府の権力をどのように制限するのか。地方と中央は、どのような関係であるべきなのか。
民権家たちは、政府の憲法を待つだけでなく、自分たちで憲法案を作りました。これが私擬憲法です。
代表例の一つが、立志社の思想家・植木枝盛が1881年にまとめた『東洋大日本国国憲按』です。そこには幅広い自由と権利、地方自治、国会を中心とする政治、さらに政府が権利を侵害した場合の抵抗権や革命権まで盛り込まれていました。
これは、自由民権運動の一部が、国会開設の要求に加えて、国家の権力をどう制限し、国民の権利をどう守るかという立憲主義の問題を扱うようになったことを示しています。
運動の参加者たちは、国会開設の請願に加えて私擬憲法を作り、国民の権利と政府権限の範囲を具体的に示しました。国会の設置だけでなく、議会で政策を実現する組織も必要だと考えられるようになりました。

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