大阪事件|民権運動の一部が朝鮮へ向かった
自由党解党後、国内で政治改革を進める道が狭まったと考えた一部の急進派は、国外の政治変動へ関心を向けました。
1885年の大阪事件では、旧自由党急進派の大井憲太郎らが朝鮮へ渡る計画を立てます。甲申政変に失敗した金玉均ら朝鮮の開化派を支援し、清から自立した改革政権を作り、東アジアの政治変動を日本国内の改革にもつなげようとしました。
計画は実行前に発覚し、多数が逮捕されました。「大阪事件」と呼ばれるのは、大阪で準備、逮捕、裁判が進められたためであり、大阪で暴動を起こそうとした事件ではありません。
景山英子と女性の政治参加
計画には景山英子、後の福田英子も加わりました。景山は、女性の政治参加を訴えた岸田俊子の演説に影響を受け、自由民権運動へ参加しました。大阪事件で投獄された後も、女性運動や社会主義運動に関わります。
自由民権運動は、男性政治家だけの運動ではありません。女性が演説を聞き、結社や事件に関わり、その経験を後の女性運動や社会運動へつないだ側面もあります。
「国際連帯」と「対外進出」の両面を見る
大阪事件の評価は一つではありません。朝鮮の改革派を支援する国際的な連帯として見る考え方がある一方、日本人が朝鮮政治へ介入する行動であり、国権論や対外進出の意識を含んでいたという批判もあります。
朝鮮の改革を助けたいという思いと、日本が周辺地域を導くという優越意識は、同じ行動のなかに併存し得ました。この事件を単純な善意や侵略意図のどちらか一方だけで説明すると、当時の思想の複雑さを見失います。
国内で人民の権利を求めた「民権」と、外国に対する国家の独立や権力を重視する「国権」は、別々に進んだわけではありません。大阪事件は、民権運動の一部が東アジアの政治と結びつき、後の対外論へ接続していく過程を示しています。
再結集への道|大同団結運動と三大事件建白運動
自由党が解党しても、1890年の国会開設という政治日程は変わりませんでした。分散した民権派は、政府に対抗し、選挙と議会へ備えるため、再び連携を探ります。
大同団結運動|一致よりも協力を優先した
1886年ごろから再結集の動きが進み、1887年、後藤象二郎は大同団結運動を展開しました。
後藤の政治活動は、1873年の明治六年政変、1874年の愛国公党と民撰議院設立建白書、1881年の自由党、1887年の大同団結運動へと続きます。日本政党史①からの連続が、一人の活動を通して見えてきます。
大同団結運動は、旧自由党をそのまま復活させる運動ではありませんでした。旧自由党系、立憲改進党系、どの党にも属さない活動家などが、政府へ対抗し国会開設に備えるという共通目標のもとで協力しようとした運動です。
思想や政策の完全な一致を先に求めず、共通する課題で連携する柔軟さがありました。一方、参加者の違いを残したまま協力したため、運動の方針をめぐって後に分裂する原因も抱えていました。
三大事件建白運動|要求が具体的な政策へ変わった
1887年の三大事件建白運動では、地租軽減、言論・集会の自由、外交失策の挽回が主な要求となりました。
| 要求 | 内容 | 政党史での意味 |
|---|---|---|
| 地租軽減 | 農民の税負担を軽くする | 制度要求に加え、生活と財政の問題を掲げた |
| 言論・集会の自由 | 政治活動への規制を改める | 政党と政治運動が活動する条件を求めた |
| 外交失策の挽回 | 条約改正交渉を批判する | 外交政策が国内の政党・民権運動の争点になった |
自由民権運動の要求は、「国会を開いてほしい」という制度上の要求から、税、自由、外交をどうするのかという具体的な政策へ進みました。
「外交失策」とは、井上馨外務卿が進めた条約改正交渉への批判です。外国人判事を任用する案などが問題視され、政府内外から反対が強まりました。外交が国民の権利や国家の独立に関わる問題として、国内政治の争点になったのです。
保安条例|国会準備と政治運動の取り締まりが並行した
政府は1887年12月、保安条例を公布・施行しました。秘密結社や政治集会を規制し、治安を妨げるおそれがあると判断した人物を、皇居から3里以内の地域から退去させることができる内容でした。多くの民権活動家が東京から退去させられます。
政府は、憲法を作り、内閣制度を整え、国会開設を準備する一方、政府へ圧力をかける集会・結社・政治運動を制限しました。
政府は立憲政治の制度を作りながら、その制度が始まる前の政治運動を厳しく管理しました。国会開設が近づくほど、政府と民権派の争いは「国会を作るか」から「誰が国会と政治を主導するか」へ移っていったのです。

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