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日本政党史②|政党競争の始まりから三大事件建白運動まで

目次
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激化事件|同じ原因で説明しない

1880年代前半の福島事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件は、自由民権運動の「激化事件」とまとめられることがあります。

ただし、すべてが自由党中央の命令で起きたわけではなく、参加者の要求も同じではありません。政府と地方議会の対立、農民の借金問題、急進派の直接行動などを分けて見る必要があります。

激化事件を比較する

事件ごとに中心となった問題が違う

事件中心となった対立・要求政党史で見えること
福島事件
1882年
県令の道路建設策と負担に反対する県会・住民政府任命の県令と、選挙で選ばれた地方議会の権限が衝突
群馬事件
1884年
地域の困窮と急進派の武力行動地方の不満と一部民権家の急進化が結びつく
加波山事件
1884年
急進派が政府高官への攻撃を計画自由党中央が一部活動家を統制できない問題が表面化
秩父事件
1884年
農民が借金の延期、分割返済、減税などを要求生活危機と民権思想・地域組織が接触

福島事件|県令と地方議会は、どちらが地方政治を動かすのか

福島県令の三島通庸は、会津地方から周辺県へ通じる道路建設を進めました。その費用や労働の負担をめぐり、河野広中を議長とする福島県会や住民が反対します。

1882年の県会は三島と激しく対立し、議案を否決する方針を取ります。道路建設への反対運動のなかで喜多方事件が起こり、河野をはじめ多くの民権家が逮捕されました。

この事件の中心には、道路建設の是非だけでなく、地方政治を誰が決めるのかという問題がありました。

政府が任命した県令と、選挙で選ばれた県会議員のどちらが住民の負担を決めるのか。1878年の三新法によって府県会が設けられ、民権家が地方議会へ進出したからこそ、この対立が起きました。

地方議会の成立は、政府と住民の対立を解消する制度ではありませんでした。選挙による代表が政府任命の行政官へ異議を唱える、新しい政治の場を作ったのです。

加波山事件|急進派の行動と自由党中央の距離

1884年、自由党の急進派の一部は、政府高官を攻撃する計画を立てました。爆発物の製造中に事故が起きて計画が発覚し、参加者は「自由の魁」の旗を掲げて加波山へ立てこもりました。

加波山事件は、板垣退助ら自由党中央が命令した行動ではありません。むしろ、全国へ広がった党の内部で、中央の方針に従わず直接行動へ進む人々が出たことを示しています。

自由党にとって、党員を増やすことと、各地の組織を共通方針のもとで動かすことは別の課題でした。通信や交通に時間がかかり、地域組織の独立性も強い時代に、中央が地方の行動を把握し統制するのは困難でした。

秩父事件|自由党解党の後に起きた農民蜂起

秩父事件は1884年10月31日に始まりました。自由党が解党した10月29日の2日後です。

そのため、秩父事件を「自由党が起こした反乱」と説明することはできません。中心となった困民党は、松方デフレと借金に苦しむ農民が、返済猶予、長期年賦、減税などを求めて作った地域組織でした。

一方で、秩父の地域活動家、自由党系の民権家、困民党の参加者のあいだには、人的な接点や思想上の影響がありました。生活を守る経済運動と、政治参加を求める民権運動が接触していたのです。

福島事件は地方議会と県令の権限、加波山事件は一部急進派の直接行動と党の統制、秩父事件は農村の生活危機と借金が中心でした。事件を同じ原因で説明しないことが、当時の民権運動を理解する出発点になります。

自由党解党|なぜ結成から3年で解党したのか

自由党は1884年10月29日に解党しました。政府の取り締まりは大きな要因でしたが、それだけが理由ではありません。

解党の原因は一つではない
政府の取り締まり集会・言論・結社への規制
地方での衝突福島事件など行政との対立
直接行動加波山事件に見られる急進化
統制の限界中央が地方組織を把握できない
内部対立指導部への批判と方針の違い
↓
自由党解党1884年10月29日

自由党は各地の民権結社を基盤に短期間で全国へ組織を広げました。それは党の強みでしたが、地域ごとの指導者と組織が強い独立性を持つことにもつながりました。

党中央の決定が地方まで同じように伝わるとは限らず、地方の行動を中央が止められない場合もありました。加波山事件は、その限界を示しています。

指導部の内部対立も深まりました。板垣退助が政府との緊張が続くなかで長期間ヨーロッパへ渡ったことに対し、馬場辰猪や末広鉄腸らは批判を強めます。板垣の外遊をめぐる対立は、党の方針と指導者への信頼に関わる問題になりました。

自由党の解党は、弾圧に耐えられなかったという一つの理由ではなく、外部からの圧力と内部の組織問題が重なった結果でした。

党がなくなっても、人脈はなくならなかった

政党史で重要なのは、自由党解党を、自由党に関わった人々や地域組織の消滅と同じに考えないことです。

板垣退助、後藤象二郎、星亨、河野広中、大井憲太郎らは、その後も政治活動を続けました。各地の民権結社、新聞、活動家同士の関係も残ります。党名と中央組織がなくなっても、人と人の結びつき、地域の活動経験、政治要求は引き継がれました。

自由党という中央組織は解党
↓
旧党員地域結社新聞人的関係政治要求
↓
大同団結運動などで再び連携
↓
国会開設を前に新しい政党編成へ

この「党名よりも人脈が長く続く」という見方は、その後の日本政党史でも役立ちます。政党が分裂・解党しても、指導者、地方組織、支持者が別の党へ合流し、以前の関係が新しい組織へ受け継がれるからです。後の社会民主党や社会主義政党を追うときにも、党名の存続期間だけでなく、解散後に誰が活動を続けたのかを見る必要があります。

立憲改進党は、大隈が離れても存続した

立憲改進党も1884年に打撃を受けました。大隈重信や河野敏鎌が党を離れます。それでも、尾崎行雄、島田三郎、沼間守一、箕浦勝人らが組織を支え、党そのものは存続しました。

創設者が離れても党が続いたことは、立憲改進党が大隈個人だけの政治結社から、継続性を持つ組織へ変わりつつあったことを示します。

自由党と立憲改進党の違いは、主張だけではありませんでした。危機が起きたときに、どの人物と地方組織が残り、誰が党務を引き受け、組織を維持できたのかという点にも表れています。

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