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日本政党史⑩|満洲事変から国際連盟脱退まで

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16|満洲国承認と連盟脱退は、日本政府自身の決定だった

1932年9月15日、斎藤内閣は日満議定書によって満洲国を正式に承認しました。議定書では、日本の既得権益を認め、共同防衛を理由に日本軍の駐屯を受け入れることが定められます。

ここで、現地の軍事占領の結果は、日本政府が認める外交上の国家関係へ変わりました。政府は、現地軍の行動を受け入れるだけでなく、その結果を国家方針として確定する主体になったのです。

1931年9月の謀略と占領、朝鮮軍増援の追認、1932年9月の国家承認は、それぞれ別の決定です。この順序を分けることで、現地軍と政府の責任を、より正確に捉えられます。

1931年9月:関東軍の一部将校が軍事行動を開始
↓
若槻内閣の不拡大方針に反して占領が広がり、増援が追認される
↓
1932年3月:満洲国の建国を宣言
↓
1932年9月:斎藤内閣が日満議定書を結び、国家承認する

リットン報告書は、日本の権益にも言及した

中国は、満洲事変の直後から国際連盟に問題を提起しました。連盟は1931年12月10日に調査団の派遣を決め、翌年、リットンを団長とする調査団が現地を調べます。

日本の満洲国承認は、報告書の公表と、連盟による最終的な処理より前でした。調査と外交交渉が進む一方で、日本政府は新国家の承認を先に決めていたのです。

1932年10月2日に公表されたリットン報告書は、単に「中国側の主張はすべて正しい」としたものではありません。日本が満洲に重要な権益を持っていたことや、日中間に複雑な問題があったことにも言及しています。

一方、日本軍の軍事行動を正当な自衛措置とする説明や、満洲国が住民の自発的な独立運動だけで成立したという説明は認めませんでした。

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報告書が扱った点判断・提案の内容
日本の権益満洲における日本の権益と、日中関係の複雑さを考慮した
軍事行動日本側が主張した自衛という説明を認めなかった
満洲国成立住民の自発的な独立運動だけで成立したものとは認めなかった
解決案中国の主権を基本に、満洲の自治的制度と日本の権益を考慮した解決を提案した

報告書が提案したのは、日本の占領をそのまま認める解決ではありません。しかし、事変以前の状態に単純に戻せばよいという提案でもありませんでした。

会場退場、脱退決定、正式通告を分ける

1933年2月24日、国際連盟総会は、報告書を踏まえた報告案を、賛成42、反対1、棄権1で採択しました。反対したのは日本です。松岡洋右ら日本代表団は議場から退場しました。

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段階日付何が行われたか
総会での採択と退場1933年2月24日報告案が採択され、日本代表団が退場
正式な脱退措置の決定3月11日日本政府が、連盟規約に基づく脱退措置を閣議で決定
脱退通告3月27日日本政府が連盟へ正式に脱退を通告
脱退の効力発生1935年3月27日規約に基づく通告後2年を経て、脱退が発効

会場を退場した瞬間に、日本が法的な加盟国でなくなったわけではありません。また、政府の脱退方針をめぐる検討は、退場後に初めて始まったものでもありません。

松岡の退場はよく知られた場面ですが、一人の代表がその場の感情で国家方針を決めたと理解するのは適切ではありません。満洲国承認を維持する方針、政府の指示、閣議の決定、正式通告という過程がありました。

「国際的孤立」は、すべての国交がなくなったことではない

連盟脱退の後も、日本は各国との外交関係や貿易を続けました。脱退を、世界のすべての国との関係を断った出来事とすることはできません。

変わったのは、日本が加盟国として、多国間の紛争処理に参加する立場でした。連盟の内部で自国の主張を説明し、他国と調整する仕組みから離れることになります。

対立していたのは、連盟だけでもありません。連盟に加盟していなかったアメリカも、1932年1月、武力による現状変更を認めない立場を示しました。スティムソン・ドクトリンと呼ばれる方針です。

満洲をめぐる対立は、中国の主権、九カ国条約、不戦条約など、日本自身も関わっていた国際秩序の問題でした。連盟を脱退しただけで、それらの条約をめぐる問題がなくなったわけではありません。

日本は連盟の創設時から参加した常任理事国でした。したがって、脱退は、初めから制度の外にいた国が排除された出来事ではありません。参加していた制度の判断を受け入れず、日本政府が脱退を選んだ出来事として理解する必要があります。

外交上の経過をさらに確認したい方は、日本の国際連盟脱退の記事へ進んでください。

17|1932年に終わったものと、その後へ続いた問題

ここまでの流れを、選挙、満洲での行動、政治暴力、外交に分けて整理します。

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分けて見る流れ1931〜1933年の経過政党史との接点
選挙と政党1930年に民政党273議席、1932年に政友会301議席政党への投票と、内閣を率いる地位が一致しなくなった
現地軍と政府柳条湖事件、占領の拡大、増援の追認、満洲国成立政党内閣が現地軍を統制できず、後の内閣が結果を承認した
国内の政治暴力三月・十月事件、血盟団事件、五・一五事件内閣や政治・財界の代表が、選挙によらない攻撃を受けた
国際外交中国の提訴、調査団、満洲国承認、連盟の採択、脱退通告国内で決めた国家方針が、国際的な紛争処理と対立した

表は、別々に進んだ動きを並べたものです。三月事件から連盟脱退までを、同じ組織の一つの計画として結んではいけません。関係する人物や判断は、段階ごとに違います。

政党内閣は、選挙で敗れて終わったのではない

1932年の政友会301議席は、犬養内閣が選挙で多数を得ていたことを示します。その多数があっても、首相の殺害後に同党の総裁を首相とする内閣は組織されませんでした。

政治への参加が広がることと、選挙結果を尊重して内閣をつくる慣行が守られることは、同じ問題ではありません。政党史のこの時期には、両者の違いが表れています。

主体を分けることで、責任が明確になる

謀略を計画した将校、増援を命じた司令官、不拡大を決めた内閣、追認した中央、国家承認した政府を分ける必要があります。五・一五事件も、陸海軍全体の正式な作戦ではありませんでした。

しかし、主体を分けることは、誰にも責任がなかったとすることではありません。それぞれが行った計画、命令、追認、政策決定について、責任を具体的に捉えるためです。

政党は残ったが、首相を出す慣行は戻らなかった

政友会と民政党、議会、選挙は、その後も続きました。それでも、1932年以前と同じ意味で政党が内閣の中心にいたわけではありません。

議会で法律や予算に関わりながら、首相選定の中心からは後退した政党が、次の時代にどう行動するのか。現地軍の行動を追認した政府が、その後も方針を自ら実行できるのか。これらは、1933年以降にも続く問題です。

政党が残っている状態と、政党が政権を率いる状態の違いは、後の政党再編や1940年の解党を考える際にも重要になります。

現代への学び|多数を得ることと、決めた方針を実行できることは違う

この時期の歴史は、支持の数だけでは政治の仕組みを理解できないことを示しています。政友会は選挙で多数を得ましたが、首相選定の慣行を維持できませんでした。若槻内閣は不拡大を決めましたが、現地でそれを実行させられませんでした。

組織を考える際には、「誰が決める権限を持つか」だけでなく、「決定に従わせる仕組みがあるか」「例外が起きたときに、誰が責任を問うか」も確かめる必要があります。

また、危機を収めるための判断と、その後に残る影響は同じとは限りません。斎藤推薦は安定を求める人選でしたが、結果として政党内閣の慣行を中断しました。意図だけで判断を評価せず、実際に何が変わったかを見る姿勢が大切です。

困窮や不満は、当時の人々が置かれた状況を理解するために欠かせません。しかし、その背景を理解することと、暴力を選んだ判断を正当化することは別です。状況、行為、結果を分けて読むことで、人間の判断を具体的に考えられます。

次回予告

次回は、1933年以降の政治を扱います。政党が議会に残る一方、政党総裁ではない首相の内閣が続くなかで、政友会と民政党はどのように立場を変えたのでしょうか。

塘沽停戦協定、岡田内閣、天皇機関説をめぐる問題、二・二六事件へと進み、内閣・軍・議会の関係を確かめます。

日本史と政党史の二つの流れから読み直す

この記事を起点に、知りたい内容から二つの読書ルートを選べます。カード全体をクリックすると記事が開きます。矢印は読む順番であり、史実上の直接的な系譜を示すものではありません。

日本政党史⑩満洲事変から国際連盟脱退まで
もう一つの視点|暮らしの危機と政治的暴力

社会的な背景と、暴力を選んだ実行者の判断を分けて読みます。

昭和恐慌企業や農村に何が起きたかを知るこの記事を読む → 五・一五事件暴力の実行と、事件後の政治の変化を確かめるこの記事を読む →

参考資料・出典

政党内閣と首相選定

満洲事変と国際連盟

経済政策

上記資料の確認日:2026年10月10日。

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