13|血盟団事件では、政治と財界の代表が標的になった
1932年2月9日、前蔵相の井上準之助が殺害されました。3月5日には、三井合名の理事長だった団琢磨が殺害されます。これらが血盟団事件です。
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| 殺害された人物 | 日付 | 当時の立場 |
|---|---|---|
| 井上準之助 | 1932年2月9日 | 金解禁・緊縮財政を主導した前蔵相 |
| 団琢磨 | 1932年3月5日 | 三井合名理事長。財界を代表する人物の一人 |
中心的な指導者は井上日召でした。「一人一殺」を掲げ、既存の政治・経済秩序を担う人物を暗殺し、国家改造へ進もうとしました。
一人は政党内閣の経済政策を担った人物、もう一人は財閥の代表です。標的の選び方には、政党と財閥を既存の支配層と見て、それを暴力で排除しようとする考えが表れています。
1920年代の政党指導者には、官僚としての経歴を持つ人々が多くいました。ただし、犬養のように異なる経歴の人物もいます。指導者全員の出自を同じものとして扱うことはできません。
血盟団の行動は、個々の政策への反対だけでなく、官僚・政党・財界を中心とする既存の政治秩序への攻撃としても理解できます。これは標的と運動の主張からの読み取りであり、当時の人々全体の考えを表すものではありません。
農村の困窮と、暗殺を選んだ集団の判断は別である
昭和恐慌による困窮は、政治や財閥への不信を強める背景でした。しかし、困窮した人々の全員が暗殺を望んだわけではありません。
殺害する人物を選び、実行に移したのは、特定の思想と人間関係を持つ集団です。不況だけを原因として説明すると、実行者がどのような政治を目指し、なぜ暴力を選んだのかが分からなくなります。
この点は、三月事件・十月事件でも見た、社会的な背景と具体的な行為を分ける読み方と共通しています。
血盟団と五・一五事件の実行勢力は、同じ組織ではない
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| 事件 | 中心となった勢力 | 両者の関係 |
|---|---|---|
| 血盟団事件 | 井上日召ら、民間の急進的な国家改造運動家 | 政党・財閥への批判を共有する人々のつながりがあった |
| 五・一五事件 | 海軍青年将校を中心に、陸軍士官候補生や民間の活動家など | 血盟団側の関係者との人的・思想的なつながりもあった |
つながりがあることと、同一組織であることは違います。事件ごとの実行者と、組織を越えた人間関係の両方を押さえる必要があります。
14|五・一五事件の後、政友会の総裁は首相に選ばれなかった
1932年5月15日、海軍青年将校を中心とする一団が首相官邸などを襲撃し、犬養毅首相を殺害しました。
襲撃は、首相一人への攻撃だけではありません。政友会本部や日本銀行なども襲われ、警視庁、三菱銀行、内大臣官邸、変電所なども攻撃の対象とされました。東京を混乱させ、政治体制を変える構想がありましたが、計画のすべてが成功したわけではありません。
中心は海軍の青年将校でしたが、陸軍士官候補生、民間の国家改造運動家、農村運動に関わる活動家も加わっています。日本海軍全体が、正式に首相殺害を命令した事件ではありません。
事件の詳しい経過は、五・一五事件の記事で確認できます。ここでは、事件後の内閣のつくられ方に注目します。
首相への襲撃後も、政党内閣が続いた例はあった
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| 首相への襲撃 | その後の経過 | 政党との関係 |
|---|---|---|
| 1921年、原敬が暗殺される | 高橋是清が後継首相になる | 政友会を基盤とする内閣が続く |
| 1930年、浜口雄幸が狙撃される | 浜口の退陣後、1931年に若槻礼次郎が後継首相になる | 民政党を基盤とする内閣が続く |
| 1932年、犬養毅が暗殺される | 高橋の臨時兼任を経て、斎藤実が首相になる | 政友会総裁を首相とする内閣にはならなかった |
浜口は狙撃の当日に亡くなったわけではありません。1931年4月に退陣し、同年8月に死去しています。襲撃、退陣、後継内閣の成立は、それぞれ別の段階です。
原の暗殺後も、浜口の狙撃後も、同じ政党を基盤とする内閣は続きました。したがって、首相が襲われれば必ず政党内閣が終わるという説明にはなりません。
1932年には、総選挙で301議席を得た政友会が存続し、犬養の後継総裁には鈴木喜三郎が選ばれました。それでも、鈴木は首相に選ばれなかったのです。
後継首相は、危機のなかで別の基準により選ばれた
最後の元老・西園寺公望は、各方面の意見を聞きながら後継首相を選びました。軍内部の動揺、挙国一致を求める声、宮中・軍・政党の関係が判断に関わります。
西園寺の覚書には、天皇から伝えられた希望として、人格を重視すること、内閣が協力内閣か単独内閣かは問わないこと、ファシズムに近い人物を避けること、憲法を擁護することが記されています。
この史料からは、政友会の多数を理由に次の党首を選ぶことよりも、危機を収めるための人選が重視されたと読み取れます。西園寺は、海軍出身の斎藤実を推薦しました。
五・一五事件が政治に与えた影響を考えるには、首相殺害という行為だけでなく、その後に誰が、どの条件を重視して、後継者を選んだのかを見る必要があります。
政治的暴力の継続と、事件ごとの違いを見る
1921年の原、1930年の浜口、1932年の井上・団・犬養への襲撃を並べると、言論や選挙によって政治を変えるのではなく、人物への身体的な攻撃で政治を変えようとする行為が繰り返されたことが分かります。
ただし、すべての事件が同一の組織や計画によって起きたわけではありません。共通する政治上の問題と、実行者・目的・結果の違いを、どちらも省かずに見ることが大切です。
15|斎藤内閣の成立で、政党の役割はどう変わったのか
犬養の死後、蔵相の高橋是清が臨時に首相を兼任しました。その後、1932年5月26日に斎藤実内閣が成立します。
斎藤は、海相、朝鮮総督、枢密顧問官などを歴任した人物でした。海軍出身であることを理由に、首相を殺害した青年将校の代理人だったと考えることはできません。既存の国家機構で長く職務を担ってきた重鎮です。
斎藤内閣には、官僚出身者を中心に、政友会・民政党の代表も入りました。この構成から「挙国一致内閣」と呼ばれます。一つの政党の党首が、その党を基盤に率いる内閣とは異なりました。
政党内閣が終わっても、政党と議会は残った
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| 中断・終了したもの | 続いていたもの |
|---|---|
| 主要政党の党首を首相として、政党を中心に内閣を組織する慣行 | 政友会・民政党という政党の組織 |
| 二大政党による政権交代 | 帝国議会と、法律・予算を議決する仕組み |
| 一つの政党を基盤にした内閣 | 総選挙、有権者、政党議員 |
| 政党総裁と首相の地位の結びつき | 政党の代表が閣僚として参加すること |
1932年に、政友会も民政党も解党したわけではありません。議会も廃止されていません。政党は多くの議席を持ち、法律や予算の成立に関わり続けました。
終わったのは、政党が内閣を率い、二大政党が交互に政権を担当する慣行です。政党は残りましたが、首相選定と内閣組織の中心から後退しました。
したがって、1932年を、議会政治の消滅や軍事独裁の完成と同じ意味で扱うことはできません。政治の仕組みのどの部分が変わったのかを、具体的に示す必要があります。
この図の矢印は、内閣が交代した順序を示しています。総選挙での勝利が首相殺害を引き起こした、という因果関係を示すものではありません。
安定を求めた人選と、その後の結果は同じではなかった
西園寺の斎藤推薦は、事件の実行者が望む政権をそのまま実現するための人選ではありませんでした。軍・官僚・政党との関係を調整し、危機を収めることを期待したものです。
しかし、その人選によって、政友会が多数を持っていても、同党の総裁を首相にしない内閣が成立しました。危機への対応として選んだ例外が、それまでの慣行を中断したのです。
その後、戦前に同じ形の政党内閣が復活することはありませんでした。ただし、1932年の時点で、それ以降のすべてが決まっていたと考えるべきではありません。次の政治家たちも、変化した条件のなかで判断を続けていきます。

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