戦場では何が起きたのか——五つの戦いをつなげて読む
1904年に始まった日露戦争では、陸と海で戦場が次々に移りました。しかし、それぞれの戦いは独立して起きたのではありません。遼陽でロシア陸軍の主力を退け、黄海で旅順艦隊の脱出を阻み、旅順・奉天・日本海へと戦いがつながっていきます。
国力の小さい日本は、戦争が長引くほど不利になります。一方のロシアは、シベリア鉄道を通じて増援を送りながら、軍を北へ退かせて日本軍を消耗させることができました。そのため日本は、戦場で勝つだけでなく、ロシアが戦争を続けられない状況を早くつくる必要がありました。
このページでは、五つの戦いについて「何を目指したのか」「勝利によって何を達成できたのか」「なぜ戦争はそれでも終わらなかったのか」を順にたどります。
日露戦争の流れを時系列でたどる

遼陽会戦|ロシア軍を退却させても、決着はつかなかった
1904年8月26日から9月4日、日本軍は満州の交通の要地・遼陽に陣取るロシア軍と戦いました。日本の第1・第2・第4軍は三方向から進み、ロシア軍主力を包囲して大きな打撃を与えようとします。アジア歴史資料センターの解説では、日本軍約13万人に対し、ロシア軍は約22万人でした。
ロシア軍は遼陽周辺に築いた陣地で日本軍を迎え撃ちましたが、包囲される危険が高まると北方へ退却しました。日本軍は遼陽を占領したものの、目的としていたロシア軍主力の包囲・撃滅には至りません。
つまり、遼陽会戦は日本軍の勝利ではあっても、戦争を終わらせる決定的な勝利ではありませんでした。ロシア軍は退却しながら戦力を保ち、日本軍は長くなる補給路を抱えたまま、さらに北へ進むことになります。
参考:アジア歴史資料センター「遼陽会戦」、大石学監修『一冊でわかる明治時代』212頁
黄海海戦|旅順艦隊の脱出を阻んだが、撃滅はできなかった
同年8月10日、旅順港にいたロシア艦隊は、海参崴へ移るため出港しました。東郷平八郎率いる連合艦隊は、これを黄海上で迎え撃ちます。
数時間にわたる砲撃戦のなかで、ロシア艦隊の旗艦ツェサレーヴィチは操舵装置を損傷し、艦隊の隊列は乱れました。多くの艦は旅順へ引き返し、一部は中立国の港へ逃れます。
日本は旅順艦隊とウラジオストク艦隊の合流を防ぎ、海上交通を守るうえで有利になりました。しかし、旅順艦隊そのものを海上で全滅させたわけではありません。港に戻った艦隊の脅威を取り除くには、陸上から旅順要塞を攻略する必要がありました。黄海海戦の結果は、次の旅順攻囲戦へつながっていきます。
参考:アジア歴史資料センター「黄海海戦」、大石学監修『一冊でわかる明治時代』212頁
旅順攻囲戦|なぜ二〇三高地で大きな犠牲が出たのか
黄海海戦後、ロシアの第一太平洋艦隊(旅順艦隊)は旅順港へ戻り、強固な旅順要塞に守られながら港内にとどまりました。日本海軍は海上から旅順艦隊を攻めましたが、要塞の砲台に阻まれ、決定的な打撃を与えられません。
その間にも、ロシアはヨーロッパからバルチック艦隊を極東へ向かわせていました。旅順艦隊とバルチック艦隊が合流すれば、日本海軍は二つの艦隊を同時に相手にすることになります。合流を防ぐため、日本はバルチック艦隊の到着前に旅順艦隊を無力化する必要がありました。
そこで、乃木希典が率いる第三軍が、陸側から旅順要塞の攻略に向かいます。しかし、ロシア軍はコンクリートで固めた砲台や陣地に大砲と機関銃を配備していました。日本軍は要塞の防御力を十分に把握できないまま攻撃し、1904年8月と10月の総攻撃は大きな損害を出して失敗します。
二〇三高地は、旅順港への砲撃を導く「目」だった
二〇三高地は、旅順港の西側にある標高203メートルの高地です。この高地の軍事的な価値は、頂上付近から旅順港内を見渡せることにありました。観測所を置けば、砲弾がどこへ落ちたのかを確認し、その情報を砲兵へ伝えて、港内の艦船を狙う砲撃を修正できます。

海軍は以前から、旅順港を見渡せる地点の確保を求めていました。11月26日に始まった第3次総攻撃も要塞正面で行き詰まると、第三軍は翌27日に攻撃目標を二〇三高地へ変更します。ロシア軍も高地の重要性を理解して守備を増強したため、砲撃と突撃、奪取と奪還が繰り返されました。
12月5日、日本軍は激しい攻防の末に二〇三高地を占領します。高地に設けた観測所から着弾地点を確認できるようになると、旅順艦隊への砲撃は強化され、複数の艦船が沈没・自沈・航行不能となりました。12月22日、連合艦隊は旅順艦隊が事実上壊滅したと大本営へ報告しています。
ただし、二〇三高地の占領だけで旅順要塞が直ちに陥落したわけではありません。その後も日本軍は東鶏冠山・二龍山・松樹山などの砲台を攻略し、1905年1月1日にロシア軍が開城を申し出ました。翌2日に開城規約が結ばれ、旅順攻囲戦は終結します。
「戦死者約1万5000人」は、旅順攻略戦全体の数字
『一冊でわかる明治時代』は、旅順における戦闘全体で、日本軍の戦死者が約1万5000人、負傷者が約4万4000人、戦病者が約3万人にのぼったと記しています。約1万5000人という数字は、二〇三高地だけの戦死者数ではありません。強固な旅順要塞を攻略する一連の戦闘で生じた犠牲です。
二〇三高地の戦いは旅順攻囲戦を象徴する激戦でした。しかし、旅順の犠牲をすべて一つの高地で生じたものとして捉えると、要塞各地で続いた攻防や、負傷・病気に苦しんだ兵士の存在が見えなくなってしまいます。
旅順開城後の1月5日、乃木希典とロシア軍司令官ステッセルは水師営で会見しました。その経緯と後世の語られ方は、水師営の会見の記事で詳しく紹介しています。
この節の主な資料:アジア歴史資料センター「第3次旅順総攻撃」、防衛省防衛研究所「日露戦争120年」、『一冊でわかる明治時代』215〜216頁(2026年9月2日確認)
奉天会戦|奉天を占領しても、ロシア軍主力を逃した
旅順を攻略した第3軍が合流すると、日本軍はロシア軍主力との大規模な決戦に臨みました。シベリア鉄道でロシアの増援が増え続ける前に、大きな戦果をあげて講和への道を開く必要があったからです。
1905年2月下旬から3月にかけて、両軍は60キロメートルを超える広い戦線で激突しました。『一冊でわかる明治時代』は、日本軍約25万人、ロシア軍約32万人、合わせて約57万人の大規模戦だったとしています。兵力の推計には資料による差がありますが、日本が経験したことのない規模の戦いだったことに変わりはありません。
日本軍は左右から大きく回り込み、ロシア軍を包囲しようとしました。ロシア軍は包囲を避けて北方へ退却し、日本軍は3月10日に奉天を占領します。しかし、ロシア軍主力は逃れており、疲労した日本軍には追撃する余力がありませんでした。
アジア歴史資料センターの解説では、日本軍の死傷者は約7万人、ロシア軍の死傷者・捕虜は約8万人にのぼります。戦場となった地域では民間人にも被害が及びました。奉天会戦は日本軍の勝利でしたが、ロシア軍主力を壊滅させた決戦ではありません。むしろ、日本が軍事的な限界へ近づいていたことも示す戦いでした。
参考:アジア歴史資料センター「奉天会戦」、大石学監修『一冊でわかる明治時代』216頁
日本海海戦|バルチック艦隊を破っても、ロシア本国は屈服しなかった
ロシアのバルチック艦隊は1904年10月にヨーロッパを出発し、約8か月をかけて東アジアへ向かいました。旅順が陥落したため、目的地はウラジオストクへ変更されます。長い航海で乗員は疲れ、速力や性能の異なる艦をまとめて動かさなければなりませんでした。『一冊でわかる明治時代』は、日英同盟の影響でイギリス植民地の港を十分に利用できなかったことも、ロシア艦隊を苦しめたと説明しています。
東郷平八郎率いる連合艦隊は、ロシア艦隊が通る可能性の高い対馬海峡周辺で待ち構えました。1905年5月27日早朝、信濃丸がロシア艦隊を発見し、「敵艦見ゆ」と報告します。連合艦隊はただちに出撃し、日本海で進路をさえぎりました。
午後2時ごろ、主力艦どうしの砲撃戦が始まります。日本艦隊は大きく針路を変えて射撃を集中し、ロシア艦隊の先頭部を崩しました。勝敗を分けた背景には、砲撃訓練や通信、艦隊運動の差に加え、ロシア側の長い航海による疲労や、速力の異なる艦を抱えた不利がありました。
ロシア艦隊司令長官は負傷し、夕方までに主力艦の多くが戦闘力を失います。翌28日には残った艦隊の一部が降伏しました。日本はロシアの増援を海上で断ち、自国と大陸を結ぶ輸送路を守ることに成功します。
それでも、日本海海戦はロシア本国を占領した勝利ではありません。ロシアはなお満州に大軍を持ち、日本にはロシア領深くへ攻め込む力がありませんでした。この勝利がもたらしたのは、戦争を一方的に終わらせる力ではなく、講和交渉へ踏み出す好機だったのです。
参考:アジア歴史資料センター「日本海海戦」、大石学監修『一冊でわかる明治時代』217〜218頁
次のページでは、日本とロシアがなぜ戦争を続けられなくなったのか、ポーツマス講和と、その後に残った負担を見ていきます。

コメント