享保の改革は、8代将軍徳川吉宗が主導した江戸幕府の大規模な改革です。「幕府中興の祖」と呼ばれることもある吉宗ですが、その改革は単純な成功物語として語れるものではありません。この記事では、享保の改革がどのような経緯で始まり、どのような施策が行われ、後世にどのように評価されているのかをわかりやすく解説します。
紀州藩から迎えられた将軍
徳川吉宗は、もともと紀州藩主・徳川光貞の四男でした。7代将軍徳川家継が幼くして亡くなり徳川宗家が断絶すると、御三家の筆頭であった尾張藩ではなく、藩政改革で手腕を発揮していた紀州藩から吉宗が迎えられ、8代将軍となりました。この異例の経緯は、吉宗が単なる血筋だけでなく、藩政改革の実績を評価されて将軍に選ばれたことを示しています。吉宗は1684年に生まれ、1716年から1745年まで将軍の座にあり、将軍職を退いたのちも大御所として影響力を持ち続け、1751年に没したとされています。将軍就任後、吉宗は側用人政治を廃止し、老中・若年寄など譜代大名を重用する体制に戻すことで、政治の立て直しに着手しました。また、のちに御三卿と呼ばれる将軍家の分家を新設するための基盤も、この時期に固められていったとされています。
財政再建のための施策
享保の改革の中心となったのは、悪化していた幕府財政の立て直しでした。吉宗は、参勤交代の期間を短縮する代わりに大名から米を上納させる「上げ米」、新田開発の奨励、年貢率を一定に固定する「定免法」による年貢増徴、そして倹約令による支出削減など、複数の施策を組み合わせて財政再建に取り組みました。これらの施策は、大名や農民に一定の負担を求めるものでもあり、財政再建という目的のために社会のさまざまな層に協力を求める改革だったといえます。とくに定免法による年貢増徴は、収穫の豊凶にかかわらず一定の年貢を納めさせる仕組みであり、天候不順の年には農民の生活を圧迫する側面もあったと考えられます。
庶民のための施策
吉宗の改革は財政再建だけにとどまりませんでした。庶民の意見を幕府に届けるための目安箱を設置し、そこに寄せられた意見をもとに、貧しい人々のための医療施設である小石川養生所が誕生しました。都市行政の面では、町奉行に大岡忠相を登用し、江戸の町を「いろは四十七組」に編成した町火消の制度を創設しています。町火消の詳しい仕組みについては、別の記事で紹介しています。
経済と法制度の整備
経済面では、同業者組合である株仲間を公認して流通の統制を図るとともに、金銀の含有比率を下げた元文金銀という貨幣を大量に発行し、米価の下落に対応しようとしました。また、公事方御定書と呼ばれる法制度の整備にも着手しており、幕府の統治体制を法の面からも固めていったことがうかがえます。町奉行に登用された大岡忠相は、のちに時代劇などを通じて「大岡越前」として広く知られる人物ですが、実際にどこまでが史実で、どこからが後世の創作かは慎重に区別して理解する必要があります。
享保の改革をどう評価するか
享保の改革は、単純に「成功した改革」または「失敗した改革」と断定できるものではありません。上げ米・新田開発・定免法・倹約令といった財政再建策により、幕府の財政はおおむね好転したとされ、吉宗は後世「幕府中興の祖」と仰がれることになりました。しかし一方で、当時急速に拡大していた貨幣経済の変化に幕府が十分対応できず、元文金銀の発行が米価の低下やインフレを招くなど、かえって幕府の権威を弱めたとする評価も存在します。享保の改革は、のちに行われる田沼意次の政治や寛政の改革、天保の改革へとつながっていく、江戸幕府の財政改革の出発点として位置づけられる出来事でした。これらの改革がそれぞれどのような特徴を持っていたのかについては、別の記事で扱っています。
まとめ
享保の改革は、紀州藩から迎えられた8代将軍徳川吉宗が、約30年におよぶ在位期間の中で主導した幕政改革で、財政再建を中心に、庶民のための施策や経済・法制度の整備まで幅広い分野に及びました。吉宗を一方的な名君として描くのではなく、財政再建という成果と、貨幣経済への対応の遅れという課題の両方があったことを踏まえて理解することが大切です。
参考資料
『テーマ別だから政治も文化もつかめる江戸時代』
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