「火事と喧嘩は江戸の華」ということわざを聞いたことがあるでしょうか。木造家屋がひしめき合う江戸の町は、日本の歴史の中でも屈指の火事の多い都市でした。この記事では、江戸がなぜこれほど火事に見舞われたのか、そして町の人々がどのようにして火事と向き合い、消火にあたっていたのかを、江戸三大大火と町火消の仕組みを中心にわかりやすく解説します。
「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた理由
江戸の町家の多くは木材と紙でできており、しかも隣家との間隔が狭く密集して建てられていました。ひとたび火の手が上がれば、瞬く間に燃え広がってしまう構造だったのです。こうした事情から、江戸では大小さまざまな火事が繰り返し発生し、いつしか「火事と喧嘩は江戸の華」ということわざが生まれました。これは、火事も喧嘩も江戸という町の活気やにぎわいを象徴する出来事として語られていたことを示す言葉であり、火事そのものを軽んじたり美化したりする表現ではなかった点には注意が必要です。実際には、大火のたびに多くの命や家屋が失われており、江戸の人々にとって火事は日常的な脅威でもありました。
江戸三大大火
江戸時代を通じて発生した数多くの火事の中でも、とくに被害が大きかった3つの火事は「江戸三大大火」と呼ばれています。
- 明暦の大火(1657年):江戸時代前期に発生した大火で、江戸城の天守をはじめ市中の広い範囲が焼失し、多くの犠牲者を出した江戸時代最大級の火事とされています。
- 明和の大火(1772年):江戸時代中期に発生した大火です。
- 文化の大火(1806年):江戸時代後期に発生した大火です。
これら3つの大火は、いずれも江戸市中の広い範囲を焼き尽くし、甚大な被害をもたらしました。とくに明暦の大火は江戸城天守が再建されなかったことでも知られており、江戸の都市のあり方そのものに影響を与えた出来事だったといえます。三大大火の存在は、江戸が一時的にではなく、260年を通じて繰り返し大規模火災の危機にさらされ続けた都市だったことを物語っています。
いろは48組と町火消の仕組み
たび重なる火事に対応するため、江戸の町には町人自身による消火組織が整えられていきました。それが「いろは48組」と呼ばれる町火消です。町火消は町人が中心となって編成された消防組織で、「いろは」の文字を組の名前にあてて区画ごとに担当を分けていました(「へ」「ひ」「ん」など縁起や語感の悪い文字は別の文字に置き換えられていたことも知られています)。町火消は、火事が起きるとまとい(纏)と呼ばれる組の目印を掲げて現場に駆けつけ、独特の装束を身にまとって消火や延焼防止にあたりました。当時の消火活動は、現在のように大量の水をかけて火を消すというよりも、火元の周囲の建物を壊して延焼を食い止める「破壊消防」が中心だったことも、江戸の町火消の大きな特徴です。
町火消は単なる消防組織にとどまらず、町人たちの意地や誇りが強く結びついた存在でもありました。その象徴的な出来事として知られているのが「め組の喧嘩」です。これは町火消の組同士の対立から生じた騒動で、火消という仕事が町人の生活の中で単なる作業ではなく、集団としての誇りをかけた活動でもあったことをうかがわせます。ただし、こうした対立の逸話をもって町火消全体を血気盛んな荒くれ者の集団と単純化してしまうのは適切ではありません。彼らは日頃から火事の多い江戸の町を実際に守り続けていた、町人社会に欠かせない存在でもありました。
まとめ
木造家屋が密集していた江戸は、火事が非常に多い都市でした。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉の背景には、明暦の大火・明和の大火・文化の大火という江戸三大大火に象徴される、繰り返し大きな被害を受けてきた歴史があります。こうした火事に対応するため、町人たちは「いろは48組」に編成された町火消という消防組織を作り上げ、まといや装束を頼りに命がけで消火にあたりました。町火消は江戸の町を実際に支えた存在であり、彼らを単純に英雄視したり、逆に喧嘩っ早い荒くれ者として片づけたりせず、火事の多い都市に生きた人々の工夫と現実として理解することが大切です。
参考資料
『テーマ別だから政治も文化もつかめる江戸時代』
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