MENU
記事を探す

江戸の仕事と商売とは?江戸時代の職人・商人の暮らしをわかりやすく解説

当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

江戸の仕事と商売とは、江戸時代を通じて町人たちがどのような職業に就き、どのように生計を立てていたかを指します。武士とは異なる独自の経済圏を築いていた庶民の仕事の世界を、資料に基づいて紹介します。

目次

この記事でわかること

  • 江戸の職人にはどのような種類があったか
  • 職人になるための修業のしくみ
  • 商人や行商人はどのような役割を果たしていたか

江戸の職人とその種類

江戸で最も人気があった職人は大工だったとされています。職人は、自宅や工房で仕事をする「居職」と、屋外の現場に出て作業を行う「出職」とに大きく分かれており、火事の多かった江戸では、左官・鳶・大工からなる「華の三職」と呼ばれる出職の需要が特に高かったとされています。ほかにも、刀鍛冶や瓦職人、畳職人、木挽など、多岐にわたる職種が存在し、「諸職人大番附」と呼ばれる番付表には140種類もの職人がランク付けされて紹介されていたとされています。大工の一日は朝8時頃から始まり、休憩を挟みながら日暮れまで働くという生活だったとされ、ほかにも桶職人(火消しの水桶などに需要があった)やカルタ職人、提灯屋、釘をつくる鍛冶師など、さまざまな分野で専門的な技術を持つ職人が活躍していたとされています。

職人になるための修業制度

一人前の職人になるには、12歳頃に親方のもとへ弟子入りし、年季奉公として約10年間修業を積む必要があったとされています。年季が明けた後も、「礼奉公」としてさらに1年ほど親方のもとで働き、その後独立するか、引き続き親方のもとで働き続けるという道があったとされています。大工は高い賃金を得られる人気の職業だった一方、危険を伴う仕事でありながら、怪我をしても補償はなかったとされています。火事の多かった江戸では、復興作業に伴って大工の稼ぎが増えることもあったとされていますが、収入は仕事の種類や時期によって差があり、「江戸の職人はみんな豊かだった」と単純化することはできません。

商人・行商人と江戸の経済

江戸の庶民の中には、棒手振りと呼ばれる行商人として、豆腐や魚などの商品を売り歩く者もいました。武士の俸禄である米を現金化する役割を担ったのが「札差」と呼ばれる商人で、100俵につき金3分ほどの手数料を得ていたとされています。一方、材木の御用達を務めた紀伊國屋文左衛門のように、一代で大きな財を築いた豪商も存在したとされています。武士の俸禄である米は、春・夏・冬の年3回に分けて支給されるのが原則で、武士自身が米を現金化することは難しかったため、その仲介を担った札差の存在が欠かせなかったとされています。大工の日当はおおむね300〜500文程度、湯屋(銭湯)の料金は大人6文・子供4文、髪結いは20文程度だったと伝えられており、当時の物価や賃金の目安がうかがえます。また、材木の御用達を務めた紀伊國屋文左衛門のように一代で大きな財を築いた例もありますが、こうした豪商は必ずしも一般的な存在ではなく、「商人=成功者」と単純に美化することはできません。「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ」という言葉が示すように、庶民は稼いだお金を貯め込まず使い切る気質があったとも言われていますが、物価や賃金の現代的な価値換算には複数の基準があり、単純に比較することは難しいとされています。

貨幣制度・暮らしとのつながり

職人の賃金や商人の手数料は、いずれも当時流通していた貨幣制度のもとでやり取りされており、江戸の仕事と商売のしくみは貨幣経済と切り離せない関係にあったと考えられます。また、職人や商人として得た収入は、庶民の衣食住を支える生活基盤にもなっており、江戸庶民の暮らしとも密接に結びついていたといえます。

まとめ

江戸の仕事と商売は、職人による多様な専門技術と、行商人や商人による流通のしくみによって支えられていたと考えられます。大工をはじめとする職人の修業制度や、札差・棒手振りといった商業の担い手の存在からは、当時の庶民が築いていた独自の経済活動の一端がうかがえます。

参考資料

『テーマ別だから政治も文化もつかめる江戸時代』(第5章「庶民の暮らし」)

関連記事

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次