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長篠の戦いとは?織田信長と徳川家康が武田軍を破った鉄砲戦の転換点

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1575年(天正3年)5月、三河・長篠。
この一戦が、日本の戦い方を根本から変えました。

最強と恐れられた武田の騎馬軍団。それを迎え撃ったのは、織田信長徳川家康の連合軍です。

長篠の戦いは、ただの勝敗ではなく、「戦国時代の戦争そのものが変わった瞬間」として語り継がれています。

この記事でわかること

  • 長篠の戦いがいつ・どこで・どちらが勝ったのか、基本データを表で整理
  • 武田信玄の死から決戦に至るまでの背景
  • 決戦までの流れを「4つの場面」で時系列に追える
  • 信長・家康・勝頼・酒井忠次、それぞれの役割と結末
  • 年表で見る、信玄の死から武田家滅亡までの経緯

目次

長篠の戦いとは何だったのか|年号・場所・勝敗をまず整理

項目内容
1575年(天正3年)5月21日
場所三河国・長篠〜設楽原(現在の愛知県新城市)
織田・徳川連合軍約38,000
武田軍約15,000
結果織田・徳川の圧勝。武田軍が壊滅的打撃を受ける

時代背景|武田信玄の死と勝頼の継承

長篠の戦いを理解するには、その前史——武田信玄の死から始める必要があります。

1573年(天正元年)、「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄が上洛の途中で病死します。享年53歳。信玄の死によって、織田・徳川にとって最大の脅威が消えました。

後を継いだのは息子の武田勝頼です。勝頼は父の築いた最強軍団を引き継ぎ、積極的な拡大路線をとります。1574年(天正2年)には徳川方の高天神城(現在の静岡県掛川市)を攻略し、その実力を天下に示しました。

そして翌年——長篠城の包囲から、歴史的な決戦へとつながっていきます。

場面出来事
第1幕長篠城の包囲——決戦の口火
第2幕信長の戦略——馬防柵と鉄砲の組み合わせ
第3幕設楽原の決戦——鉄砲三段撃ちは本当にあったのか
第4幕武田軍の壊滅——戦国最強の終焉

【第1幕】長篠城の包囲——決戦の口火

1575年5月、武田勝頼は約15,000の軍勢を率いて三河へ侵攻します。狙いは、徳川方の要衝である長篠城でした。

長篠城を守る奥平貞昌はわずか500の兵で籠城を続けます。状況が切迫した城から、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が脱出して岡崎城の徳川家康に救援を求めました。家康はすぐに信長に援軍を要請し——こうして織田・徳川の大軍が動き出します。

城を守る奥平貞昌からの使者・鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、武田軍の包囲を突破して救援を求めた伝承で知られています。捕らえられた後も信長援軍の到来を告げたとされ、長篠城の兵士たちの士気を保ったと伝えられています。


【第2幕】信長の戦略——馬防柵と鉄砲の組み合わせ

約38,000の織田・徳川連合軍は、武田軍と設楽原(したらがはら)で対峙します。信長がとった戦術は、従来の戦いとはまったく異なるものでした。

川を天然の障壁に利用し、その前面に馬防柵(ばぼうさく)を構築します。さらに鉄砲を大量に集中配備し、接近する武田軍を迎え撃つ体制をとりました。

武田の騎馬隊が馬防柵に阻まれ、鉄砲の一斉射撃にさらされる——これまでの合戦では見られなかった光景が設楽原に広がりました。


【第3幕】設楽原の決戦——鉄砲三段撃ちは本当にあったのか

長篠の戦いといえば、「鉄砲三段撃ち」が有名です。鉄砲隊を3列に並べ、順番に撃つことで連続射撃を可能にした——という戦術です。

ただし近年の研究では、この「三段撃ち」の実在については疑問が呈されています。戦場の状況や当時の記録などから、組織的な三段撃ちがあったかどうかは不明とする見方もあります。

近年では、鉄砲三段撃ちだけで勝敗を説明する見方には慎重な意見もあり、酒井忠次率いる別働隊による鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)への攻撃を重視する見方もあります。

武田軍の後方拠点・鳶ヶ巣山砦が酒井別働隊に奇襲されたことで、武田勝頼は設楽原へ全軍を繰り出さざるを得なくなりました。その結果、騎馬軍団が柵と鉄砲の前に次々と倒れていったのです。


【第4幕】武田軍の壊滅——戦国最強の終焉

設楽原の戦いで武田軍は壊滅的な打撃を受けました。馬場信春・山県昌景・内藤昌豊など、武田四天王と呼ばれる勇将たちが次々と戦死します。

武田勝頼はかろうじて逃れましたが、この敗北は武田家に取り返しのつかない打撃を与えました。以後、多くの家臣が離反し始め、武田家の凋落が始まります。1582年(天正10年)、武田家は滅亡することになります。


関わった人物たち

織田信長(1534〜1582年)

鉄砲と馬防柵を組み合わせた新戦術を実践した。武田という最大の脅威を退け、天下布武に大きく近づいた。

徳川家康(1542〜1616年)

長篠城の救援から信長に援軍を要請した。同盟を活かして武田の圧力をはね返し、後の天下取りへの足場を固めた。

武田勝頼(1546〜1582年)

父・信玄の遺産と精鋭軍団を受け継いだが、長篠の敗北が転機となった。家臣の離反が相次ぎ、1582年に武田家は滅亡。勝頼自身も天目山で自害した。

酒井忠次(1527〜1596年)

徳川四天王の一人。長篠では別働隊を率いて鳶ヶ巣山砦を奇襲し、勝利の一因を作ったとされる。


長篠の戦いが変えたもの

この一戦によって日本の軍事史は大きく転換しました。

  • 鉄砲の戦略的価値の確立——大量の鉄砲を組織的に運用することで、従来の騎馬突撃を無力化できると実証された
  • 武田家の衰退と信長の台頭——「最強」と恐れられた武田軍団が壊滅し、信長の天下統一が加速した
  • 防御陣地の重要性——馬防柵・川などを組み合わせた陣地構築が戦術の柱になった
  • 武田家の滅亡への伏線——この敗北が家臣の離反を招き、1582年の武田家滅亡につながった

年表|長篠の戦いをめぐる経緯

出来事
1573年武田信玄、上洛の途中で病死(享年53歳)。息子・武田勝頼が家督を継ぐ。
1574年武田勝頼、徳川方の高天神城を攻略。その戦力を天下に示す。
1575年5月武田勝頼が長篠城を包囲。徳川家康が信長に援軍を要請し、織田・徳川連合軍が出陣。
1575年5月21日設楽原の決戦。酒井忠次の別働隊が鳶ヶ巣山砦を奇襲。武田軍壊滅し、四天王を含む多くの将が戦死。
1582年武田家滅亡。勝頼は天目山で自害。名門・武田家が74年の歴史に幕を閉じる。

現代への学び

長篠の戦いは、「強さ」のかたちが変わる瞬間を示しています。

武田の騎馬軍団は当時「最強」とされていました。しかし、信長は既存の戦法に縛られず、鉄砲と馬防柵という新しい組み合わせを試みました。「最強の敵」に勝つために、これまでの常識を疑う発想が求められたのです。

また近年の研究では「鉄砲三段撃ち」の実在が疑問視されているように、歴史の「定説」も常に更新されることがあります。「有名な話」ほど疑ってみることが、歴史を深く理解する近道かもしれません。


まとめ

長篠の戦いは、武田という「最強神話」を打ち砕いた戦いです。

「鉄砲三段撃ち」については近年疑問が呈されていますが、馬防柵・鉄砲・組織的な防御という信長の戦術思想が勝利を生み出したことは確かです。そして勝敗の決め手として、酒井忠次による鳶ヶ巣山砦の奇襲が果たした役割も見逃せません。

この一戦によって戦国時代の戦争は変わり、信長の天下統一への歩みが大きく加速しました。そして武田家はこの敗戦から立ち直れず、1582年に滅亡の道をたどることになります。


参考資料

  • 小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年(p.26:武田信玄列伝)
  • 小和田哲男監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年(p.91:迷走を続けた武田勝頼、p.93:設楽原への誘い出された武田軍)

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