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関ヶ原の戦いとは?徳川家康が天下を決めた一日【戦国時代が終わった決戦】

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1600年(慶長5年)9月15日、美濃・関ヶ原。徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した。兵力は東軍約7万4,000対西軍約8万(参考書A評価 p.40)。わずか一日で勝敗が決し、戦国時代の帰趨が定まった。この戦いで勝利した家康はその後江戸幕府を開き、大坂の陣を経て豊臣家を滅ぼし、徳川260年の礎を築いた。戦国時代の出来事一覧もあわせて参照。

目次

3行でわかる関ヶ原の戦い

①豊臣秀吉の死後、石田三成と徳川家康が対立し、全国の大名が東西に分かれて争った。②小早川秀秋の寝返りが戦局を決し、わずか一日で東軍の勝利となった。③家康が天下の実権を握り、江戸幕府への道が開かれた。

基本情報

1600年(慶長5年)9月15日
場所美濃関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)
兵力東軍 約7万4,000 vs 西軍 約8万(参考書A評価 p.40)
主な武将(東軍)徳川家康・福島正則・黒田長政・細川忠興・井伊直政
主な武将(西軍)石田三成・宇喜多秀家・島津義弘・大谷吉継・毛利秀元
結果東軍(家康)の勝利。西軍主要将帥は処刑・改易・減封

時代背景——なぜ天下分け目の戦いが起きたか

豊臣秀吉の死と権力の空白

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去した。後継者の秀頼はまだ幼く、五大老・五奉行の合議制が採られた。五大老とは徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の5名で、豊臣政権の最高職を担っていた(p.39)。

しかし秀吉の死後、家康は伊達家・加藤家・黒田家などと婚姻を結んで自派を拡大し、専横を強めた。五大老の前田利家が死去すると、家康を止められる者はいなくなった。一方、反家康派の五奉行・石田三成も加藤清正との対立で失脚していた(p.39)。

三成の挙兵——東西に分かれる大名

1600年6月、家康は東北の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いをかけ、諸大名を率いて会津へ出兵した。この好機に石田三成が挙兵し、毛利輝元を総大将に立てて家康方の城に攻め寄せた。全国の大名が東軍(家康方)と西軍(三成方)に二分されていった(p.39)。

関ヶ原の戦いの流れ

【第1幕】小山評定——家康が引き返す決断

会津へ向かっていた家康は、三成挙兵の報を受けて7月25日に下野(栃木)の小山で評定を開いた。東軍の諸将が家康に従うことを確認し、西へ引き返す方針が決まった(p.40)。家康は9月14日に美濃赤坂に着陣し、本戦に向けた最終的な布陣を固めた。

一方、秀忠率いる徳川本隊は上田城(真田昌幸)に足止めされ、本戦に間に合わなかった。これは後の大きな問題となるが、家康は手元の兵力だけで本戦に臨む決断をした。

【第2幕】布陣と調略——戦場の外での勝負

9月14日の夜、石田三成は大垣城を出て関ヶ原に移動した。西軍は岡山・南宮山・松尾山に本陣を置いた。特に松尾山には小早川秀秋が布陣していたが、その立場は曖昧だった。

家康は開戦前から諸大名への調略を進めていた。南宮山の毛利軍・吉川広家との密約、小早川秀秋へのアプローチなど、「戦場の外での勝負」が実質的な勝敗を決めた(p.40)。

【第3幕】9月15日——小早川の寝返りが戦局を決めた

9月15日午前、戦端が開かれた。井伊直政や福島正則の隊が宇喜多勢に攻撃を仕掛けたのが始まりとされる(p.41)。一進一退が続く中、南宮山に布陣した毛利・長宗我部などの西軍諸将は、吉川広家の内通により動かなかった(p.41)。

正午頃、松尾山の小早川秀秋が東軍への寝返りを決行し、大谷吉継の陣に攻め込んだ。大谷吉継は奮戦したが討死し、西軍は総崩れとなった(p.41)。石田三成・宇喜多秀家らは敗走し、その後捕えられた。義元との一日は午後3時頃には決着がついたとされる。

【第4幕】全国への波及——地方でも東西が戦う

関ヶ原本戦と前後して、全国各地でも東西両軍が衝突した(p.39の地図)。慶長出羽合戦では最上義光・伊達政宗の東軍が上杉軍と交戦し、本戦敗北で上杉が撤退した。田辺城では細川幽斎が西軍に包囲されたが、天皇の勅命により開城交渉が進み、約1カ月間西軍を足止めした。黒田官兵衛は九州で大友義統を破った(石垣原の戦い)。

関わった人物たち

徳川家康(1543〜1616)——天下人への布石

徳川家康は豊臣政権内での婚姻政策・調略・諸将取り込みという「戦場の外での準備」で勝利を確定させた。関ヶ原後、1603年に征夷大将軍に就任し、2年後に息子・秀忠に職を譲って徳川の天下が続くことを示した(p.39)。

石田三成(1560〜1600)——豊臣への忠義

近江国坂田郡の出身。秀吉に仕え、内政官僚として太閤検地などを推進した人物。加藤清正らの武将派と対立しながらも豊臣家への忠義を貫き、関ヶ原で敗北。敗走後に捕縛され、京の六条河原で処刑された。

小早川秀秋(1582〜1602)——勝敗を決めた寝返り

豊臣秀吉の正室・おねの甥で小早川隆景の養子。家康に鉄砲で脅かされて寝返ったという逸話が有名だが、近年は合戦の開始前から意図していたという研究もある(p.41)。この寝返りが西軍の崩壊を決定的にした。

関ヶ原の戦いが変えたもの

①徳川家の天下確立:家康は戦後、西軍大名を処刑・改易・減封し、東軍の大名には加増を行った。これにより「家康に逆らえば滅ぼされる」という実力が示された(p.39)。

②豊臣家の急落:総大将を務めた毛利輝元は120万石から65万石の一大名に転落した(p.39)。豊臣家はまだ存続していたが、その権威は名目的なものとなり、大坂の陣へ向けた対立の芽が生まれた。

③江戸幕府への布石:1603年に家康は征夷大将軍に就任。将軍位が徳川家の世襲であることを天下に示し、江戸260年の基礎となった(p.39)。

現代への学び

関ヶ原の戦いで特に注目されるのは、「本戦よりも前の調略で勝敗が決まっていた」という点だ。小早川秀秋の寝返り、南宮山の毛利軍の不動——これらはいずれも戦場外の工作の結果だった。現代のビジネスや交渉でも、表舞台での勝負の前に「味方をどれだけ固めるか」が重要であることを示している。一方で、勝負に出た三成の潔さも後世に語り継がれる。

年表

1598年豊臣秀吉死去。五大老・五奉行制発足
1599年前田利家死去。家康の専横が顕著に
1600年7月家康、上杉景勝への会津攻め出兵
1600年7月25日小山評定。家康、西へ引き返す決断
1600年9月14日家康、赤坂着陣。石田三成、大垣城から関ヶ原へ移動
1600年9月15日関ヶ原の戦い。小早川秀秋の寝返り。東軍の勝利
1600年10月石田三成・小西行長・安国寺恵瓊ら処刑
1603年家康が征夷大将軍に就任。江戸幕府開府
1605年秀忠に将軍職を譲る。徳川の世を天下に示す

まとめ

関ヶ原の戦いは「天下分け目の戦い」と呼ばれるだけあり、この一日で戦国時代の帰趨が決定した。勝敗の鍵は戦場での武力だけでなく、事前の調略と諸大名の動向にあった。家康の勝利は「戦う前から準備していた」政治的な実力の結果だったとも言える。大坂の陣(1614〜15年)へとつながる豊臣家との対決、戦国時代の人物一覧もあわせて参照してください。

参考資料

小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年。

  • p.39:全国に波及した関ヶ原の戦い(フローチャート・地方戦一覧・五大老用語解説)
  • p.40:関ヶ原本戦までの動き(地図・兵力データ:東軍7万4,000 vs 西軍約8万)
  • p.41:関ヶ原の戦い布陣図・小早川秀秋(1582〜1602)武将列伝

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