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宇喜多秀家とは?豊臣の寵臣・五大老・関ヶ原西軍に参加し八丈島へ流された生涯をわかりやすく解説

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宇喜多秀家うきたひでいえは、豊臣秀吉とよとみひでよしに深く寵愛された大名であり、五大老のひとりとして豊臣政権の中枢を担った。関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいでは石田三成いしだみつなりとともに西軍の中心的な大名として戦ったが、敗北後に捕らえられ、八丈島はちじょうじまへの流刑を命じられた。その後50年以上を孤島で過ごし、1655年に83歳(または84歳)で没した。「悲劇の末路」として描かれることが多い秀家ひでいえだが、同時代の関ヶ原せきがはら生存者の中でもっとも長命だったという側面もある。本記事では史料の範囲で秀家ひでいえの実像を整理する。

3行でわかる宇喜多秀家うきたひでいえ

  • 豊臣秀吉とよとみひでよしの寵愛を受けた備前びぜんの大名で、秀吉ひでよしの養女・豪姫ごうひめを正室に迎え、五大老のひとりに数えられた。
  • 関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい石田三成いしだみつなりとともに西軍に参加し中心的な役割を果たしたが、西軍敗北後に薩摩さつまへ逃亡、のちに捕縛されて八丈島はちじょうじまに流された。
  • 八丈島はちじょうじまでの流刑生活は50年以上に及び、1655年に83歳(または84歳)で没した。関ヶ原せきがはらに参加した武将の中でもっとも長命な人物として知られる。

基本プロフィール

項目内容
生年1572年
没年1655年(83歳または84歳)
出身備前国びぜんのくに岡山
宇喜多直家うきたなおいえ
主君豊臣秀吉とよとみひでよし
正室豪姫ごうひめ秀吉ひでよしの養女)
役職五大老のひとり
関ヶ原せきがはら西軍参加
流刑地八丈島はちじょうじま(1606年〜)

生い立ちと父・宇喜多直家うきたなおいえの遺産

宇喜多秀家うきたひでいえは1572年、備前国びぜんのくに(現・岡山県)の大名・宇喜多直家うきたなおいえの子として生まれた。父・直家なおいえは謀略と暗殺を駆使して勢力を拡大した武将として知られ、その評判は後世まで「梟雄きょうゆう」と呼ばれるほど強烈なものだった。

直家なおいえは1581年に病没し、秀家ひでいえはわずか9歳(または10歳)で家督を継ぐことになる。まだ幼い当主を支えたのが、台頭しつつあった豊臣秀吉とよとみひでよしだった。秀吉ひでよしは宇喜多家を傘下に収めつつ秀家ひでいえを後見し、自らの養女・豪姫ごうひめ前田利家まえだとしいえの娘)を秀家ひでいえの正室として迎えさせた。この婚姻は政治的な意味合いが強く、秀家ひでいえは「秀吉ひでよしの養婿」という立場によって豊臣政権の中枢に近い位置に置かれることになった。

父・直家なおいえの謀略的なイメージと比べると、秀家ひでいえは温和で秀吉ひでよしへの忠誠心が厚い人物として描かれることが多い。ただし、この評価の多くは後世の軍記物語に基づくものであり、史料から読み取れる実像は必ずしも一致しない点もある。

豊臣政権の中枢へ──五大老のひとりとして

秀吉ひでよしは晩年、豊臣政権の安定を図るために「五大老」「五奉行」という体制を整えた。五大老とは政権の最高意思決定に参加する有力大名の合議体であり、徳川家康とくがわいえやす前田利家まえだとしいえ毛利輝元もうりてるもと上杉景勝うえすぎかげかつ、そして宇喜多秀家うきたひでいえの5名で構成された。

秀家ひでいえが五大老に名を連ねた背景には、「秀吉ひでよしの養婿」という特別な立場が大きく働いていた。実力だけで見れば、徳川家康とくがわいえやす前田利家まえだとしいえのような大物と肩を並べるには秀家ひでいえはまだ若く、備前びぜん・美作・播磨など約57万石の石高を持ちながら、政治的な経験という点では他の大老に比べて見劣りする部分もあった。それでも秀吉ひでよし秀家ひでいえを五大老に加えることで、自らの後継者体制に「豊臣に近い存在」を組み込もうとした意図が見える。

秀吉ひでよしは1598年に没し、秀家ひでいえはその後の豊臣政権の行方を左右する政局に直面することになる。

宇喜多騒動うきたそうどう──関ヶ原せきがはら前夜の家中分裂

関ヶ原せきがはら前夜の1599〜1600年頃、宇喜多家の内部で深刻な分裂が起きた。いわゆる「宇喜多騒動うきたそうどう」と呼ばれる内紛で、家臣団の一部が秀家ひでいえの政治姿勢や家中の運営に不満を抱き、反発した事件である。主要な重臣たちの何人かが家を離れ、一部は徳川方に走るなど、宇喜多家の内部結束は大きく揺らいだ。

この内紛は秀家ひでいえの求心力や指導力に疑問を投げかけるものだったが、同時に当時の豊臣政権内部の緊張──石田三成いしだみつなり徳川家康とくがわいえやすの対立を背景とした派閥争い──とも無縁ではなかった。宇喜多騒動うきたそうどう関ヶ原せきがはらに向かう宇喜多家の体制を弱体化させる要因のひとつになったとも言われる。

関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいで西軍に参加──なぜ西軍を選んだのか

1600年の関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいにおいて、宇喜多秀家うきたひでいえは西軍(石田三成いしだみつなり毛利輝元もうりてるもとら)に参加した。兵力は約1万7千とも言われ、西軍の中でも大きな戦力のひとつだった。

秀家ひでいえが西軍を選んだ理由は単純ではない。「石田三成いしだみつなりへの義理」という後世の語り口が有名だが、実態はより複合的だったとみられる。秀吉ひでよしへの忠誠から豊臣家の存続を願う姿勢、「秀吉ひでよしの養婿」という立場が豊臣政権の後継体制との紐帯を強くしていたこと、そして徳川家康とくがわいえやすへの政治的警戒感などが重なっていた可能性がある。石田三成いしだみつなりとの親密さは確かにあったが、それだけで関ヶ原せきがはらでの行動を説明するのは単純化しすぎる面もある。

関ヶ原せきがはら本戦では秀家ひでいえの部隊は奮戦したとされるが、小早川秀秋らの裏切りによって西軍は崩壊し、秀家ひでいえも敗走を余儀なくされた。西軍のもう一人の中心人物だった小西行長こにしゆきながも同様に関ヶ原せきがはらで敗れ、のちに処刑されることになる。

薩摩さつまへの逃亡と島津の庇護──八丈島はちじょうじま流刑へ

関ヶ原せきがはら敗北後、秀家ひでいえは戦場を脱し薩摩さつま国(現・鹿児島県)の島津氏のもとへ逃亡した。島津家は関ヶ原せきがはらで西軍についており、秀家ひでいえを一時的に匿った。しかし徳川家康とくがわいえやすの追及は厳しく、島津家もいつまでも秀家ひでいえをかくまうことは難しかった。

1603年頃に秀家ひでいえは自ら出頭し、捕縛された。死罪は免れたが、1606年に八丈島はちじょうじま(伊豆諸島の孤島)への流刑を命じられた。なぜ死罪ではなく流刑だったのかについては、正室・豪姫ごうひめが前田家の娘であることや、家康いえやすが政治的な配慮をした可能性などが指摘されているが、史料から確定的なことは言いにくい。

八丈島はちじょうじまでの50年──「悲劇の末路」と長命の事実

1606年から没年の1655年まで、宇喜多秀家うきたひでいえ八丈島はちじょうじまで50年近くを過ごした。後世には「悲劇の流人」として語られることが多く、孤島での貧しい暮らしや、豊臣の栄光から一転した境遇が強調される。

ただし、いくつかの事実も整理しておく必要がある。秀家ひでいえ八丈島はちじょうじまで子孫を残しており、子や孫とともに暮らした時期もあったとされる。また、83歳(または84歳)という没年齢は、当時としては異例の長命である。関ヶ原せきがはらで命を落とした大谷吉継おおたによしつぐ石田三成いしだみつなり小西行長こにしゆきながらと比べると、秀家ひでいえはその後半世紀以上を生き続けたことになる。

「悲劇の末路」という像は後世が形成した側面も強く、実際には長寿の流人という複合的な実像があった可能性が高い。豊臣の時代を知る最後の人物として、江戸時代の初期から中期にかけての変化を見届けた存在でもあった。

宇喜多秀家うきたひでいえの歴史的意義

宇喜多秀家うきたひでいえの存在は、豊臣政権の性格を考える上でいくつかの示唆を持つ。五大老という体制において「秀吉ひでよしの養婿」という立場が持つ意味──つまり実力よりも関係性によって政権中枢に組み込まれた大名がどのような役割を担い、どのような政治的選択をしたか──その具体例として秀家ひでいえの動向は興味深い。

また、関ヶ原せきがはら後に長く生き続けた存在として、豊臣時代の記憶を体現する人物でもあった。謀略で知られた父・直家なおいえと「秀吉ひでよしの寵臣」として描かれた秀家ひでいえの対比は、同じ宇喜多家の中で異なる評価が形成されていったことを示しており、歴史上の人物像がいかに後世によって整形されるかを考える素材にもなる。

年表

  • 1572年:備前国びぜんのくにに生まれる(父・宇喜多直家うきたなおいえ
  • 1581年:父・直家なおいえの病没を受け、9歳(または10歳)で家督を継ぐ
  • 1586年頃:豊臣秀吉とよとみひでよしの養女・豪姫ごうひめと婚姻
  • 1598年:秀吉ひでよし没後、五大老のひとりとして豊臣政権を支える
  • 1599〜1600年頃:宇喜多騒動うきたそうどう(家中の内紛)
  • 1600年:関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい(西軍参加)→ 敗北・薩摩さつまへ逃亡
  • 1603年頃:自ら出頭・捕縛
  • 1606年:八丈島はちじょうじまへ流刑
  • 1655年:八丈島はちじょうじまにて没(83歳または84歳)

まとめ

宇喜多秀家うきたひでいえは、豊臣秀吉とよとみひでよしの深い寵愛を受けながら五大老という重職に就き、関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいで西軍の中心的な大名として戦った人物である。敗北後の八丈島はちじょうじま流刑という末路は「悲劇」として語られることが多いが、83歳(または84歳)まで生き延び、関ヶ原せきがはら生存者の中でもっとも長命だったという事実もある。父・直家なおいえの謀略的評価とは対照的に「秀吉ひでよしの寵臣」として描かれてきた秀家ひでいえの像には、後世の美化・単純化が入り込んでいる部分も少なくない。史料の範囲で実像に近づくことが、宇喜多秀家うきたひでいえを理解する第一歩になる。

参考資料

  • 小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年。
  • 小和田哲男監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年。

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