「鎌倉が落ちた」「関東が真っ二つに割れた」――。
室町時代の関東で起きた上杉禅秀の乱(1416年10月〜1417年1月)は、たった約3か月で鎌倉府の中枢をひっくり返した大事件です。
この乱は、単なる上杉氏の内輪揉めではありません。
**鎌倉公方(足利持氏) vs 関東管領(上杉氏)**という、関東支配の「二重権力」の亀裂が表に出た瞬間であり、のちの大きな衝突(永享の乱など)へつながる“関東戦乱の入口”にもなります。
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3行でわかる上杉禅秀の乱
- 前関東管領の上杉禅秀(上杉氏憲)が、鎌倉公方に反旗を翻した内乱(1416年10月〜1417年1月)。
- 乱軍は鎌倉を制圧して公方を追い出すが、幕府が公方側を支援し形勢逆転。
- 包囲の末、禅秀は鎌倉で自害し、短期決着する(ただし遺恨は長く残る)。
当時の国内情勢:京都も関東も「権力の継ぎ目」だった
乱が起きた背景には、東西それぞれの政権が“安定しきれていない”事情がありました。
京都(室町幕府)側:引き締めの政治と、くすぶる緊張
当時の将軍は足利義持。派手さより「引き締め」を選び、政権運営を現実的に整えていく一方、各地には別の緊張も生まれていきます。
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関東(鎌倉府)側:そもそも「割れやすい仕組み」だった
関東は、
- 鎌倉公方(足利氏の一門が就く“東のトップ”)
- 関東管領(上杉氏が“実務と軍事”を握る補佐役)
という並立構造で動いていました。
この“二つの権威”が噛み合わないと、政権そのものが割れます。上杉禅秀の乱は、まさにそれが現実になった事件でした。
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対立勢力:誰が誰と戦ったのか
この乱の軸はシンプルです。
鎌倉公方側(鎌倉府の正統側)
- 足利持氏(鎌倉公方)
- 新たに関東管領となった山内上杉家(上杉憲基)
- 最終局面では、室町幕府も持氏側を支援して兵を動かす
禅秀側(反乱側)
- 上杉禅秀(上杉氏憲)(前関東管領・犬懸上杉家)
- 足利満隆(持氏の叔父にあたり、禅秀が“旗印”として担ぐ)
- 関東・周辺の有力武士が多数合流
乱の原因:なぜ反乱は起きたのか
原因は「積み重なった不満」+「人事の決定打」です。
原因1:持氏と上杉(犬懸家)の関係悪化
所領や統治をめぐる摩擦が積もり、禅秀側の反発が強まったと考えられています。
原因2:関東管領の更迭と“ライバル起用”
禅秀(氏憲)は関東管領を更迭され、後任に**山内上杉家(憲基)**が立てられます。
関東支配の実権に直結するポストだけに、ここで対立が“引き返せない形”になりました。
原因3:京都の政局とも連動した疑い
禅秀側が京都側の政局(将軍家周辺の綱引き)と連動していた可能性も語られ、幕府が「放置できない」と判断する一因になったとされます。
どう展開した?3か月の流れ(1416年10月〜1417年1月)
短期決戦だったからこそ、展開は速いです。
1416年10月:反乱勃発、鎌倉が落ちる
禅秀側が挙兵し、鎌倉を制圧。持氏は鎌倉を追われます。
1416年末:持氏側が立て直し、幕府も動く
持氏は支援を得て巻き返しへ。幕府が持氏側を支援する軍勢を送り、包囲網が固まっていきます。
1417年1月:鎌倉包囲、禅秀は自害
最終的に禅秀側は鎌倉で追い詰められ、禅秀(氏憲)と満隆が自害して終結します。
どう終結したのか:勝敗以上に残った“後味の悪さ”
表面的には、**「反乱は鎮圧され、禅秀は自害」**で終わりです。
ただし本質は、ここからです。
- 乱後、持氏は“残党狩り”の名目で反禅秀勢力を攻め、関東の対立がさらに深まったとされます。
- その結果、鎌倉府と幕府の関係も悪化し、のちの大きな衝突へ繋がっていきます。
この「東の火種」に幕府が強く介入する流れは、次の将軍期でさらに鮮明になります。
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メインの登場人物:押さえるべき4人
- 上杉禅秀(上杉氏憲):更迭された前関東管領。反乱の中心。
- 足利持氏:鎌倉公方。追放されるが巻き返して勝利側に。
- 上杉憲基:山内上杉家。持氏側の新関東管領として対立軸に。
- 足利満隆:禅秀が擁立した“旗印”。最後は禅秀とともに自害。
なぜ重要?この乱が「関東戦乱の入口」になった理由
上杉禅秀の乱は、事件そのものよりも、**「関東の統治システムが、内輪の対立で簡単に割れる」**と証明した点が大きいです。
以後の関東は、鎌倉公方と関東管領の関係がこじれれば、同じように大きな戦乱へ発展しやすくなっていきます。

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