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源平合戦前編|頼朝の流罪から東国武士の結集までわかりやすく

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源平合戦げんぺいかっせんというと、一ノ谷や壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかいを思い浮かべる人が多いかもしれません。
ですが、その大きな戦いの前には、すでに歴史を大きく変える流れが始まっていました。

平治へいじの乱で敗れ、伊豆へ流されていた源頼朝みなもとのよりとも
このときの頼朝よりともは、後に鎌倉幕府を開く人物というより、ただ生き残った敗者のひとりにすぎませんでした。

しかし、そこから頼朝よりともは再び立ち上がります。

平家への不満が高まる中で挙兵し、石橋山いしばしやまで敗れながらも立て直し、やがて東国武士たちをまとめて鎌倉へ入っていきました。

源平合戦げんぺいかっせん前編では、そんな頼朝よりともの再起と、東国武士の結集までの流れを見ていきます。
ここは、後の鎌倉幕府の土台が静かに作られ始めた時期でもありました。

まずはここだけ|前編の流れをざっくり見る

源平合戦げんぺいかっせん前編では、源頼朝みなもとのよりともが「流人」から「東国武士の中心」へ変わっていく流れを追います。 まずは全体の流れをざっくり確認しておきましょう。

  1. 平治へいじの乱で源氏が敗れる
  2. 頼朝よりとも伊豆へ流される
  3. 平家の全盛期が続く
  4. 以仁王の令旨もちひとおうのりょうじをきっかけに頼朝よりともが挙兵する
  5. 石橋山いしばしやまの戦いで敗れるが、安房あわで再起する
  6. 東国武士をまとめ、鎌倉を拠点にしていく
目次

源平合戦げんぺいかっせん前編とは|頼朝よりともの再起から始まる物語

後の将軍は、最初は流人だった

源平合戦げんぺいかっせんは、源氏と平氏が争った大きな戦いです。
ただ、この戦いは最初から全国で大きな合戦が続いたわけではありません。

はじまりにあるのは、平治へいじの乱で源氏が敗れ、頼朝よりともが伊豆へ流されたところです。

そこから平家の力が強まり、やがて反平家の動きが広がり、頼朝よりともの挙兵へとつながっていきました。つまり前編の見どころは、平家を倒す戦いそのものよりも、頼朝よりともがどうやって再起し、東国武士たちの中心になっていったのかにあります。

平治へいじの乱で源氏は敗れ、頼朝よりともは伊豆へ流された

すべての始まりは、敗者として生き残ったことだった

源平合戦げんぺいかっせんの前に、源氏はすでに大きな敗北を経験していました。

それが平治へいじの乱です。

平治へいじの乱では、源義朝みなもとのよしとも平清盛たいらのきよもりと争いましたが、結果は平清盛たいらのきよもりの勝利に終わりました。
この戦いによって源氏の勢力は大きく弱まり、頼朝よりともの父である源義朝みなもとのよしともも敗れて命を落とします。

敵方の大将の息子である頼朝よりともは、本来なら処刑されてもおかしくない立場でしたが、助命され、伊豆へ流されることになります。

この時点での頼朝よりともは、未来の将軍というより、歴史の表舞台から消えた存在に近いものでした。
ですが結果として、この伊豆での流人生活が、後の運命を大きく変えることになります。

平家の全盛期|なぜ反平家の空気が強まったのか

強すぎる平家は、やがて反発も集めていった

源氏が力を失った一方で、大きく栄えたのが平家です。
平清盛たいらのきよもりは武士として初めて大きな権力を握り、ついには太政大臣にまで上りつめました。

平家一門は朝廷の中でも強い力を持つようになり、娘を天皇家に嫁がせることで政治の中心にも近づいていきます。

こうして平家は、武士でありながら貴族社会の中心に入り込んでいきました。

ただ、平家の栄華がそのまま人々の支持につながったわけではありません。

一門を重く用いる政治は、貴族や寺社、地方武士たちの不満を集めることになります。

さらに、後白河法皇ごしらかわほうおうとの対立も深まり、朝廷の中でも平家への反発が強まっていきました。

平家はたしかに強かったのですが、その強さが逆に敵を増やしていったのです。

以仁王の令旨もちひとおうのりょうじで源氏が動き出す

反平家の火種は、ここで一気に広がった

こうした反平家の空気の中で、大きなきっかけになったのが以仁王の令旨もちひとおうのりょうじです。
以仁王もちひとおうは平家打倒を呼びかけ、各地の源氏に立ち上がるよう求めました。

この呼びかけによって、各地で反平家の動きが表に出てきます。
そして頼朝よりともにとっても、ここが挙兵へ向かう大きなきっかけとなりました。

頼朝よりともは長く伊豆で暮らしていましたが、ここでついに立ち上がります。
流人だった頼朝よりともが、再び歴史の表舞台へ戻ってくる瞬間です。

源平合戦げんぺいかっせんは、ここから本格的に動き始めました。

頼朝よりともの挙兵と石橋山いしばしやまの戦い

最初の一歩は、勝利ではなく敗北だった

1180年、頼朝よりともは伊豆で挙兵します。
しかし、ここでいきなり大きな勝利をおさめたわけではありませんでした。

頼朝よりとも石橋山いしばしやまの戦いで平家方の大庭景親おおばかげちからと戦いますが、兵力の差もあり敗れてしまいます。
挙兵したばかりの頼朝よりともにとって、この敗北はかなり厳しいものでした。

ですが、ここで終わらなかったことが頼朝よりともの大きさでした。

頼朝よりとも安房あわへ逃れ、そこで再び立て直しを図ります。
もし石橋山いしばしやまで敗れたあと、そのまま終わっていれば、頼朝よりともが歴史の主役になることはなかったでしょう。

源平合戦げんぺいかっせん前編の大事な転換点は、ここで敗れても消えなかったことにあります。

れき坊メモ

頼朝よりともは最初から順調だったわけではありません。石橋山いしばしやまで敗れても終わらず、安房あわで立て直したことが大きな転換点でした。

頼朝よりともはなぜ立て直せたのか|東国武士が味方についた理由

頼朝よりともを強くしたのは、戦の才能より人をまとめる力だった

安房あわへ逃れた頼朝よりともは、そこで少しずつ勢力を立て直していきます。
ここで大きかったのが、東国武士たちの支持です。

東国の武士たちは、都の政治から距離があり、それぞれの土地を守ることを強く意識していました。
そうした武士たちにとって、源氏の血を引く頼朝よりともは、平家に対抗する旗印として魅力のある存在でした。

また、頼朝よりともに従うことは、単に源氏を助けるという話ではありません。
自分たちの土地や立場を守ることにもつながっていたのです。

つまり東国武士たちは、理想だけで頼朝よりともに従ったわけではなく、現実的な利益と期待も見ていました。
頼朝よりともは、そうした武士たちの思いを受け止めながら、東国の中心へと成長していきます。

なぜ東国武士は頼朝よりともについたのか?

理由 内容
源氏の血筋 頼朝よりともは、平家に対抗する旗印になれる存在でした。
土地を守りたい 東国武士は、自分たちの所領や立場を守ることを重視していました。
平家への不満 平家の強すぎる政治に対して、反発する空気が広がっていました。
頼朝よりとものまとめる力 頼朝よりともは、人々の期待を受け止めながら、主君として勢力をまとめていきました。

頼朝よりともの仲間たちが集まり始める|鎌倉殿の13人につながる顔ぶれ

幕府は、戦う前から人の集まりとして始まっていた

頼朝よりともは一人で平家に立ち向かったわけではありません。
その周りには、少しずつ有力な東国武士たちが集まり始めていました。

たとえば、北条氏、三浦氏、和田氏などは、後の鎌倉政権でも大きな役割を果たす一族です。
この時期の頼朝よりとものもとには、のちに鎌倉政権を支える有力御家人たちにつながる顔ぶれがそろい始めていました。

ここで大切なのは、この時点で「鎌倉殿の13人」が完成していたわけではないということです。
ただ、後に鎌倉殿を支えることになる人々の流れは、すでにこの頃から形になり始めていました。

源平合戦げんぺいかっせんは平家を倒す戦いであるだけでなく、頼朝よりともが主君として仲間を集め、主従関係を固めていく過程でもあったのです。

頼朝よりともが鎌倉に入った意味とは

京都ではなく鎌倉を選んだことが、新しい政治の始まりだった

頼朝よりともは再起したあと、やがて鎌倉を本拠にします。
この選択には大きな意味がありました。

鎌倉は三方を山に囲まれ、一方が海に開けた守りやすい土地です。
さらに東国武士たちをまとめる拠点としても都合がよく、京都から距離があるぶん、独自の政治の中心を作りやすい場所でもありました。

もし頼朝よりともが京都を中心にしようとしていたら、後の鎌倉幕府の形は大きく違っていたかもしれません。

鎌倉を拠点にしたことで、頼朝よりともは朝廷とは別の場所から武士たちをまとめていくことになります。

この時点ではまだ幕府はできていません。
ですが、鎌倉を中心に人と力が集まり始めたことで、後の武家政権の土台が見え始めていました。

頼朝よりともが鎌倉を選んだ理由

① 守りやすい地形だった

鎌倉は三方を山に囲まれ、一方が海に開けた守りやすい土地でした。

② 東国武士をまとめやすかった

東国の武士たちをまとめる拠点として、鎌倉はとても都合のよい場所でした。

③ 京都とは別の政治の中心を作れた

鎌倉を拠点にすることで、頼朝よりともは朝廷とは別の場所から武士たちをまとめることができました。

富士川の戦いふじかわのたたかいと前編の到達点

頼朝よりともはここで“流人”から“東国の主”へ変わっていく

前編の最後で押さえておきたいのが、富士川の戦いふじかわのたたかいです。
この戦いでは、平家軍が退き、頼朝よりとも側に有利な流れが生まれました。

有名なのは、水鳥の羽音に驚いて平家軍が乱れたという話です。
この逸話は知られていますが、それ以上に重要なのは、ここで頼朝よりともがさらに東国での地位を固めたことです。

頼朝よりともはこのあと、すぐに京都を目指すのではなく、まず東国支配を固める道を選びます。

ここに、頼朝よりともらしさがよく表れています。
ただ戦いに勝つことよりも、まず自分の足元を固める。

この判断があったからこそ、頼朝よりともは後に平家を倒したあとも、生き残る政権を作ることができました。

前編は、頼朝よりともがまだ全国の支配者ではないものの、すでに東国武士の中心として立ち上がったところまでを見るパートだと言えます。

ここから先は、木曽義仲きそよしなか源義経みなもとのよしつねが登場し、戦いは平家滅亡へ向かって大きく動いていきます。
続きは後編で読む

まとめ|前編は「頼朝よりともが立ち上がり、仲間を集めた時期」だった

前編の流れを年表でおさらい

出来事 ポイント
1159年 平治へいじの乱 源氏が敗れ、頼朝よりともの運命が大きく変わる
1160年ごろ 頼朝よりともが伊豆へ流される 流人生活が始まる
1180年 以仁王の令旨もちひとおうのりょうじ 反平家の動きが広がる
1180年 頼朝よりともが挙兵 源平合戦げんぺいかっせんが本格的に動き始める
1180年 石橋山いしばしやまの戦い 頼朝よりともはいったん敗北する
1180年 安房あわで再起 東国武士の支持を集め始める
1180年 鎌倉入り・富士川の戦いふじかわのたたかい 東国武士の中心としての地位を固める

見出しで差がつく一言:後の幕府は、ここで静かに始まっていた
源平合戦げんぺいかっせん前編では、平治へいじの乱で敗れた源頼朝みなもとのよりともが、流人の立場から再び立ち上がるまでの流れを見てきました。

最初の挙兵では石橋山いしばしやまで敗れながらも、安房あわで再起し、東国武士たちの支持を集めていったこと。
そして鎌倉を拠点にすることで、後の武家政権につながる土台を作り始めたこと。

ここが前編の大きな意味です。

源平合戦げんぺいかっせんは、いきなり平家滅亡へ進んだわけではありません。
その前に、頼朝よりともが仲間を集め、東国武士の主君としての立場を固めていく時期がありました。

後編では、この流れの続きとして、木曽義仲きそよしなか源義経みなもとのよしつねの活躍、平家滅亡、そして鎌倉幕府成立へつながる動きを見ていきます。

続きはこちら

後編を読む

源平合戦げんぺいかっせん後編|木曽義仲きそよしなか義経よしつねの活躍から鎌倉幕府成立まで

前編では、頼朝よりともが再起し、東国武士をまとめるまでを見てきました。 後編では、木曽義仲きそよしなか源義経みなもとのよしつねの活躍によって平家が追い詰められ、壇ノ浦で滅亡し、さらに鎌倉幕府成立へつながる流れを追っていきます。

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