明応の政変とは?将軍がすげ替えられ「戦国の入口」が開いた日
「応仁の乱が終わっても、世の中は落ち着かなかった」
それを象徴する事件が、**明応の政変(1493年)**です。
これは、幕府のトップである将軍が、家臣側の主導で“交代”させられた政変。
しかも、その後の日本は将軍が二系統に割れ、権威が一本に戻りにくい状態へ進んでいきます。
3行まとめ
- 明応の政変(1493年)は、管領が将軍を廃して別の将軍を立てた、室町幕府の擁廃立事件。
- 将軍は義材(義稙)から義澄へ交代し、将軍家が二流に分かれる土台ができた。
- 以後「権威が割れたまま進む政治」が強まり、戦国化を早めたと語られる。
史実データ(ざっくり把握)
- 年:1493年(明応2年)
- 内容:管領が将軍を廃し、別の将軍を擁立したクーデター
- 舞台:京都(幕府の中枢で起きた)
結論:明応の政変で「何が変わった?」
明応の政変で起きた最大の変化は、これです。
“将軍は絶対”という前提が、現場の力関係でひっくり返った。
将軍が交代して終わりではなく、
「上の権威が割れる」→「地方が“自分の論理”で動きやすくなる」
という流れを加速させました。
背景:なぜクーデターが起きたのか
室町後期の政治は、将軍だけでは回りません。
実務と軍事の主導権を握る有力者(管領や有力守護)がいて、将軍と“同じくらい重い”存在になっていました。
そこへ
- 将軍側の方針
- 有力者側の利害
- それに絡む周辺勢力(大名家の争い)
がズレると、話し合いではなく「すげ替え」で決着をつける誘惑が強くなります。
実際、明応の政変は「将軍を廃して別の将軍を立てる」事件として説明されます。
何が起きた?(流れ)
ここは年号を覚えるより、順番が大事です。
- 有力者側が、将軍に対して不満・対立を深める
- 細川政元が主導し、将軍を“交代”させる動きに出る
- 将軍が 足利義材(義稙) から 足利義澄 に交代する
- その後、将軍家が二流に割れた状態が残り、「政治の一本化」が難しくなる
キーパーソン(最低限ここだけ)
- 細川政元:政変の中心人物。将軍廃立を主導し、幕府政治の主導権を握った。
- 足利義材(義稙):廃位された将軍。
- 足利義澄:擁立された将軍。
- 日野富子:政変に関わった人物として挙げられる。
- 「細川政元とは?」
- 「足利義稙とは?」
- 「足利義澄とは?」
- 日野富子とは?応仁の乱の後継争いを動かした「将軍家の実務者」
影響:明応の政変が残したもの
1)“権威が割れる”政治が常態化しやすくなった
将軍交代そのものより、正統性が一本になりにくい構造が残ったことが痛い。
2)戦国化を「早める仕組み」を作った
上(京都)の方針が割れるほど、地方は「自分たちで決める」方向へ動きやすい。
時代区分の議論でも、1493年(明応の政変)を境に“戦国”を意識する見方があるのはそのためです。
3)下克上のリアリティが増した
「上を倒しても、世の中が回る」前例ができると、同じ発想が各地でも起きやすくなります。
よくある誤解
誤解:明応の政変=一発で室町幕府が終わった事件
→ 実際は、幕府がすぐ消えるわけではありません。ただし、**“一本だった権威が割れたまま進む”**土台を作り、その後の混乱を長引かせる要因になります。
まとめ
明応の政変(1493年)は、管領細川政元が将軍を廃し、別の将軍を擁立したクーデターです。
この事件が重いのは、単なる人事ではなく、「権威が割れても政治が進む」時代の入口を作ったこと。
応仁の乱の後に積み上がったひずみが、京都の中枢で“形”になった出来事だと言えます。
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