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平安時代まとめ

平安時代(794年〜1185年)

平安時代は桓武天皇が京都の平安京へ遷都した794年から源頼朝が全国に守護・地頭を設置した1185年まで続く日本で一番長い時代です。

約400年続いた平安時代は天皇と貴族の権力争い、律令制度の崩壊、院政の開始と歴史的な転換点が多く加えて後半は武士が台頭し朝廷、貴族を凌駕する権力を手にした時代でもありました。

平安時代を理解するキーワード

  • 天皇と藤原氏による権力の相互補完関係
  • 仏教が政治に与えた影響
  • 藤原氏の他氏排斥
  • 藤原氏による外戚政治
  • 平将門の乱、藤原純友の乱
  • 奥州藤原氏の誕生
  • 院政の開始
  • 平家と源氏
目次

平安時代を年表でみる

天皇在位年院政年号事象
桓武天皇737~806802二官八省の見直し
坂上田村麻呂により蝦夷を平定する
805最澄が比叡座延暦寺で天台宗を開く
806桓武天皇が崩御
平城天皇806~809平城天皇が即位
空海が高野山金剛峯寺で真言宗を開く
809平城天皇が退位し平城京へ移る
嵯峨天皇809~823嵯峨天皇が平安京で即位する
810薬子の変
藤原冬嗣が蔵人頭の設置
816検非違使の設置
淳和天皇823~833823淳和天皇が即位
833淳和天皇が崩御
仁明天皇833~850仁明天皇が即位
842承和の変
850仁明天皇が崩御
文徳天皇850~858文徳天皇が即位
858文徳天皇が崩御
清和天皇858~876清和天皇が即位
866藤原良房が摂政に就任
応天門の変
876清和天皇が退位
陽成天皇876~884陽成天皇が即位
884陽成天皇が退位
藤原基経が関白に就任
光孝天皇884~887光孝天皇が即位
887光孝天皇が崩御
宇多天皇887~897宇多天皇が即位
藤原基経が関白に就任
阿衡の紛議
888菅原道真の活躍により阿衡の紛議決着
894遣唐使の廃止
897宇多天皇退位
醍醐天皇897~930醍醐天皇が即位
昌泰の変
902延喜の荘園整理令
905古今和歌集編纂
930醍醐天皇が崩御
朱雀天皇930~946朱雀天皇が即位
935平将門の乱
939藤原純友の乱
946朱雀天皇が退位
村上天皇946~967村上天皇が即位
967村上天皇が崩御
冷泉天皇967~969冷泉天皇が即位
969安和の変
円融天皇969~984円融天皇が即位
984円融天皇が退位
花山天皇984~986花山天皇が即位
986花山天皇が退位
一条天皇986~1011一条天皇が即位
1011一条天皇が退位
三条天皇1022~1016三条天皇が即位
1016三条天皇が退位
後一条天皇1016~1036後一条天皇が即位
藤原道長が摂政に就任
1017藤原道長が太政大臣に就任
藤原頼通が摂政に就任
1026平忠常の乱
1036後一条天皇が崩御
後朱雀天皇1036~1045後朱雀天皇が即位
1045御朱雀天皇が崩御
後冷泉天皇1045~1068後冷泉天皇が即位
1051前九年の役
1052末法思想が広がる
1062前九年の役が終結
1063清原武則が鎮守府将軍に任命される
1068後冷泉天皇が崩御
後三条天皇1068~1072後三条天皇が即位
1069延久の荘園整理令
1072後三条天皇が退位
白河天皇1072~1086白河天皇が即位
1083後三年の役
白河上皇1086白河天皇が退位し院政を開始
堀河天皇1086~1107堀河天皇が即位
1088後三年の役終結
奥州藤原氏の誕生
1095白河上皇が北面武士を設置
1105藤原清衡が中尊寺の造営に着手
1107堀河天皇が崩御
鳥羽天皇1107~1123鳥羽天皇が即位
1123鳥羽天皇が退位
崇徳天皇1123~1141崇徳天皇が即位
1129白河上皇が崩御
鳥羽上皇鳥羽上皇が院政を開始
1141崇徳天皇が退位
近衛天皇1141~1155近衛天皇が即位
1155近衛天皇が崩御
後白河天皇1155~1158後白河天皇が即位
1156保元の乱
後白河上皇1158後白河天皇が退位し上皇として院政を開始する
二条天皇1158~1165二条天皇が即位
1159平治の乱
1165二条天皇が崩御
六条天皇1165~1168六条天皇
1167平清盛が太政大臣に就任
1168六条天皇が退位
高倉天皇1168~1180高倉天皇が即位
後白河上皇が法王の称号を得る
1177鹿ヶ谷の変
1179治承三年の政変
1180高倉天皇が退位
安徳天皇1180~1185安徳天皇が即位
以仁王の令旨
石橋山の戦い
富士川の戦い
源頼朝が侍所を設置
1181平清盛が死去
高倉上皇が崩御
墨俣川の戦い
横田河原の戦い
1183火打城の戦い
般若野の戦い
倶利伽羅峠の戦い
後白河法皇により安徳天皇が退位
※後鳥羽天皇1183〜後鳥羽天皇が即位
水島の戦い
1184宇治川の戦い
栗津の戦い
一ノ谷の戦い
源頼朝が公文所・問注所を設置
1185屋島の戦い
壇ノ浦の戦い
源頼朝が守護・地頭の設置
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天皇在位年院政年号事象
桓武天皇737~806802二官八省の見直し
坂上田村麻呂により蝦夷を平定する
805最澄が比叡座延暦寺で天台宗を開く
806桓武天皇が崩御
平城天皇806~809平城天皇が即位
空海が高野山金剛峯寺で真言宗を開く
809平城天皇が退位し平城京へ移る
嵯峨天皇809~823嵯峨天皇が平安京で即位する
810薬子の変
藤原冬嗣が蔵人頭の設置
816検非違使の設置
淳和天皇823~833823淳和天皇が即位
833淳和天皇が崩御
仁明天皇833~850仁明天皇が即位
842承和の変
850仁明天皇が崩御
文徳天皇850~858文徳天皇が即位
858文徳天皇が崩御
清和天皇858~876清和天皇が即位
866藤原良房が摂政に就任
応天門の変
876清和天皇が退位
陽成天皇876~884陽成天皇が即位
884陽成天皇が退位
藤原基経が関白に就任
光孝天皇884~887光孝天皇が即位
887光孝天皇が崩御
宇多天皇887~897宇多天皇が即位
藤原基経が関白に就任
阿衡の紛議
888菅原道真の活躍により阿衡の紛議決着
894遣唐使の廃止
897宇多天皇退位
醍醐天皇897~930醍醐天皇が即位
昌泰の変
902延喜の荘園整理令
905古今和歌集編纂
930醍醐天皇が崩御
朱雀天皇930~946朱雀天皇が即位
935平将門の乱
939藤原純友の乱
946朱雀天皇が退位
村上天皇946~967村上天皇が即位
967村上天皇が崩御
冷泉天皇967~969冷泉天皇が即位
969安和の変
円融天皇969~984円融天皇が即位
984円融天皇が退位
花山天皇984~986花山天皇が即位
986花山天皇が退位
一条天皇986~1011一条天皇が即位
1011一条天皇が退位
三条天皇1022~1016三条天皇が即位
1016三条天皇が退位
後一条天皇1016~1036後一条天皇が即位
藤原道長が摂政に就任
1017藤原道長が太政大臣に就任
藤原頼通が摂政に就任
1026平忠常の乱
1036後一条天皇が崩御
後朱雀天皇1036~1045後朱雀天皇が即位
1045御朱雀天皇が崩御
後冷泉天皇1045~1068後冷泉天皇が即位
1051前九年の役
1052末法思想が広がる
1062前九年の役が終結
1063清原武則が鎮守府将軍に任命される
1068後冷泉天皇が崩御
後三条天皇1068~1072後三条天皇が即位
1069延久の荘園整理令
1072後三条天皇が退位
白河天皇1072~1086白河天皇が即位
1083後三年の役
白河上皇1086白河天皇が退位し上皇に就任
堀河天皇1086~1107堀河天皇が即位
1088後三年の役終結
奥州藤原氏の誕生
1095白河上皇が北面武士を設置
1105藤原清衡が中尊寺の造営に着手
1107堀河天皇が崩御
鳥羽天皇1107~1123鳥羽天皇が即位
1123鳥羽天皇が退位
崇徳天皇1123~1141崇徳天皇が即位
1129白河上皇が崩御
鳥羽上皇鳥羽上皇が院政を開始
1141崇徳天皇が退位
近衛天皇1141~1155近衛天皇が即位
1155近衛天皇が崩御
後白河天皇1155~1158後白河天皇が即位
1156保元の乱
後白河上皇1158後白河天皇が退位し上皇として院政を開始する
二条天皇1158~1165二条天皇が即位
1159平治の乱
1165二条天皇が崩御
六条天皇1165~1168六条天皇
1167平清盛が太政大臣に就任
1168六条天皇が退位
高倉天皇1168~1180高倉天皇が即位
後白河上皇が法王の称号を得る
1177鹿ヶ谷の変
1179治承三年の政変
1180高倉天皇が退位
安徳天皇1180~1185安徳天皇が即位
以仁王の令旨
石橋山の戦い
富士川の戦い
源頼朝が侍所を設置
1181平清盛が死去
高倉上皇が崩御
墨俣川の戦い
横田河原の戦い
1183火打城の戦い
般若野の戦い
倶利伽羅峠の戦い
後白河法皇により安徳天皇が退位
※後鳥羽天皇1183〜後鳥羽天皇が即位
水島の戦い
1184宇治川の戦い
栗津の戦い
一ノ谷の戦い
源頼朝が公文所・問注所を設置
1185屋島の戦い
壇ノ浦の戦い
源頼朝が守護・地頭の設置

奈良時代から平安時代へかけての時代背景

奈良時代は天智天皇の大化の改新により中央集権化が進められました。しかし、天皇の権力も徐々に衰え貴族や仏教が力をつけた時代です。

そして、743年に墾田永年私財法により公地公民が崩れ荘園が増加し武士の原型が誕生しました。それに伴い律令制度も形骸化していったのです。

50代桓武天皇は弱体化した朝廷権力と不安定な自身の立場を安定させるために平安京へ遷都を行い400年続く平安時代が幕を開けます。

征夷と造都

平安時代の幕を開けた桓武天皇は専制君主的なイメージを持たれることもあります。
それは、桓武天皇が25年にわたるさまざまな政治改革をおこなったからです。

桓武天皇が特に力を注いだのが征夷と造都です。

征夷とは朝廷の権力の及んでいなかった東日本への支配権の拡大であり、造都は平安京(長岡京も含む)の造営つまり首都の開発です。

この2つの事業は民に多大な負担を強いることになりました。町を開発するのも、東の国を攻めるのも民の力が必要不可欠です。

では、桓武天皇はなぜ民に負担を強いてまで2大事業を始めたのか?

それは、桓武天皇の出自に関係していました。桓武天皇の母は百済系渡来人であり天皇の妃の中でもっとも位の低い地位にありました。

加えて父である光仁天皇の時代に皇統が天武天皇系から天智天皇系に変化したことも関係しています。

父の光仁天皇は天武天皇系の聖武天皇の娘婿というつながりがあり皇統が変化したとしても天皇としての正当性は高かった。しかし、桓武天皇の母が百済系渡来人でありライバル達と比べ正当性が低かったのです。

そのため、桓武天皇は自身の正当性を自分で生み出す必要があったのです。つまり征夷と造営は桓武天皇が自身の正当性を高めるためにおこなった桓武新王朝を演出するためのパフォーマンスとも言えます。

そして、桓武天皇の皇位継承や事業をサポートしていたのが藤原百川でした。

天皇と藤原氏による権力の相互補完関係

日本を統治する存在は古来より天皇でした。しかし、奈良時代の複雑な権力闘争により天皇、貴族、仏教とがそれぞれ力を持つようになります。

天皇をトップに国を統治する律令制度が形骸化するなか政治を安定させるため天皇と有力貴族である藤原氏の関係が深まっていったのです。

複雑な権力構造のもと天皇の権威の在り方が変化していった

形骸化したとはいえ律令制度のもとで日本の支配構造は構築されていましたので国の最高権力者は天皇です。貴族、仏教も天皇を蔑ろにすることはできない一方、天皇も2つの勢力を蔑ろにできない状態でした。

古来より続く天皇の権威は絶対的なものです。しかし、この辺りの時代から天皇の在り方変化していきます。

古代日本では天皇個人が権威の象徴でした。時代が進むにつれ次第に天皇個人から天皇家というものに権威が移っていったのです。

”〇〇天皇が偉い”から”天皇である〇〇が偉い”表現するとこんな感じ?

天皇個人から天皇家に権威が移ったことにより面白い現象が起こります。この先、天皇の人事権を握ったものが国で一番権力を握るようになるのです。

そのことにいち早く気づいたの藤原氏でした。藤原氏は天皇の人事権を得るために外戚というポジションを獲得することに力を注ぐようになります。

天皇も後ろ盾である藤原氏が力を持つと天皇家の権威も上がるようになるため天皇と藤原氏は権力を相互補完的な関係が出来上がっていくのです。

仏教が政治に与えた影響

仏教は飛鳥時代に日本に伝えられ蘇我氏と物部氏の崇仏論争の末日本に広まりました。

時代が進むにつれ仏教は全国に浸透し日本に古来から信仰されていた神道と融合していきます。神道と仏教が融合し新たな神仏崇拝の思想が民衆に広がりました。

日本は古来より呪術的なものを信じる文化が根強くあります。天皇が日本の統治者として民衆に受け入れらていたのもそれこに起因します。

神道だけでも古来の日本はまとめることができていました。ではなぜ仏教を広める必要があったのか?

なぜ日本に仏教を取り入れる必要があったのか

仏教を日本に取り入れたいくつかの理由のうち重要だと思うものが2つあります。

・海外との交流のツールとして
・国を守護する鎮護国家思想

まず、中国をはじめとした日本と関係のある諸外国との外交ツールとしての機能ですが日本固有の神道は国内には浸透していましたが海外の国には認知されていませんでした。

これは、天皇が日本を統治する正当性を海外に主張する時に困ります。なぜなら、海外の国にはアマテラスという神をはじめ日本の神々存在が認知されていないのです。

海外の国にアマテラスを先祖に持つ血筋であるため天皇家が日本の正当な支配者であると主張してもアマテラスを知らない人からすれば正当性を主張することはできません。

そこで、海外の国と価値観、認識を共有するため仏教を取り入れたのです。天皇は日本の神を祀る神社のトップであり、仏教のトップでもという事実を主張できることが大切だったのです。

そして、仏教の教えにある鎮護国家思想も国を統治するためには役に立つものでした。仏教が広まれば民衆に国を護という考えが広まるのです。

為政者からすればこの事業は国を護ために必要であるという号令で民衆を動かすことができる便利な思想だったことでしょう。

こうして仏教は国家の支配体制に組み込まれました。時代が進むにつれ仏教は政治と切り離すことができないほど力をつけていきます。

奈良時代では仏教の僧が国で一番権力を持つという事態まだおこりました。それほど仏教が国の中枢に影響力を与える存在になったのです。

藤原氏による他氏排斥

藤原氏は奈良時代に天智天皇と共に大化の改新を成し遂げた中臣鎌足を祖に持つ一族です。中臣鎌足は天智天皇から厚く信頼され藤原姓を賜った。そしてその息子である不比等とその息子達、娘の光明子により政争を勝ち抜き強力な権力を手にしました。

平安時代の最初の天皇である桓武天皇をサポートしたのも藤原氏の一族であり式家の藤原百川でした。
絶大な権力を握る藤原氏でしたが政権のライバルはいまだ存在しています。

皇族や有力貴族、そして藤原氏の一族です。

藤原氏の分流

藤原不比等の息子から藤原氏は4家に分裂しました。

始祖分流
武智麻呂南家
房前北家
宇合式家
麻呂京家
藤原四子

4家のうち藤原房前を祖に持つ北家が平安時代には藤原氏本流となって摂関職を独占。
あの有名な望月の歌を歌った道長を輩出しました。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば

藤原道長(『前賢故実巻6』国立国会図書館蔵)

他氏排斥事件の年表

藤原氏が絶対的な権力を握るまで藤原氏を快くこもわない皇族、貴族達がいました。しかし、藤原氏はいずれのライバル達も陰謀または時の必然により排除していくのでした。

藤原氏他氏排斥事件
良房842承和の変(伴健岑・橘逸勢)
866応天門の変(伴善男)
基経888阿衡の紛議(橘広相)
時平901昌泰の変(菅原道真)
実頼969安和の変(源高明)
藤原氏による他氏排斥事件

ここでは、それぞれの事件を簡単に記述していきます。

他氏排斥事件の詳細

承和の変

二つの皇統(嵯峨上皇・仁明天皇淳和天皇・恒貞親王)で権力争いが勃発。勝ったのは嵯峨上皇・仁明天皇グループ。良房は嵯峨上皇、仁明天皇のグループに属し勝ち馬に乗ることができました。政敵である伴健岑と橘逸勢はここで失脚するのです。

これが承和の変である。

承和の変で皇統が仁徳天皇に一本化。そして、仁明天皇の皇太子に立てられた皇子が良房の妹の順子の子”道康”であったため良房は天皇の外戚の地位を得る。さらに道康が文徳天皇として即位すると良房の娘である明子を妃に迎えいれ次期天皇である清和天皇を産むことになり外戚の地位から権力を増強させていった。

応天門の変

応天門は天皇の居所「大内裏」にあった正殿八省院の正門のことである。その応天門に伴善男と息子の伴中庸が火を放ったことにより流罪となり失脚したという事件である。

伴善男は古代日本から続く有力貴族であり良房の政敵でした。

応天門の変で政敵である伴一族は没落することになる。
そして、応天門の変で伴善男に放火犯に仕立て上げられた源信も精神を病み失脚する。
結果的に良房は力をつけはじめていた伴氏と源氏二つの勢力を抑えることに成功しました。

応天門の変の後良房は清和天皇により人臣としてはじめて摂政に命じられる。良房は外戚と摂政というポジションを得ることにより権力基盤を固めていきます。

阿衡の紛議

応天門の変のあと清和天皇は良房に政務の代行を命じる。若い天皇では乱れた世を安定させることはできないと判断したのです。

天皇の外戚、摂政の地位を確立した良房は後継者に藤原基経を指名します。基経は良房の実施ではなかったのですが男児ができなかった良房の養子に迎えられました。

そして、清和天皇に同母妹が入内し貞明(後の陽成天皇)を出産します。
清和天皇が病によって陽成天皇に譲位すると基経は陽成天皇の外戚となりました。

陽成天皇は9歳と歳若く政務執行が困難であるため基経が良房にならい摂政として政務と執り行うことになります。

しかし、陽成天皇は突然退位を表明。陽成天皇の外戚、摂政としての立場がなくなり基経の政権運営は不安定なものとなりました。

そこで、基経は自身とは血縁関係もない清和天皇の叔父である時康親王を次期天皇に推薦します。基経のサポートにより時康親王は光孝天皇として即位。

光孝天皇は本来なら天皇になる存在ではなかったため政務の仕方がわからずにいました。そこで自身を天皇として支持してくれた基経に政務決裁の助力を求めることにしました。

これが事実上の関白の始まりとされています。

ここまで、背景説明でした。

良房から基経への権力の移り変わりと天皇との関係が理解できたところで阿衡の紛議の話をしましょう。

光孝天皇の後継に皇太子定省を指名します。そして、貞省は宇多天皇のとして即位します。宇多天皇も父である光孝天皇と同じく基経を重用し彼を正式に関白として命じます。

しかし、宇多天皇は基経と良好な関係をきずくことができなかったようです。

宇多天皇が基経を関白として登用する際、中国の故事を引用し「阿衡の任」としました。しかし阿衡の任はいわば名誉職と言われる具体的な仕事がない役職でした。基経はこれに不満を持ち約1年あまり出仕を拒否します。

年若い宇多天皇に自分の存在がいかに重要であるかをアピールし主導権を握ろうと圧をかけたのです。

基経の圧力に耐えられなかった宇多天皇は阿衡の任の非を認め起草者である橘広相(菅原一族と関係あり)を処罰。

阿衡の紛議は天皇が臣下の圧力に屈したということになります。そして、天皇の側近であれ藤原氏に逆らうと処罰されるという前例になりました。橘広相を排除し他の政敵を牽制することに成功しました。

昌泰の変

阿衡の紛議で宇多天皇に圧力をかけた基経に対し両者を仲裁し天皇をフォローした人物がいました。それが昌泰の変で失脚する菅原道真です。

菅原氏はもともと天皇の葬送などに携わる土師氏の一族でしたが道真の曽祖父の代から菅原の姓を名乗ることを許され一般的な官人へと転身しました。

その後、菅原氏は有力な文人官僚として頭角を現します。道真の父である是善は阿衡の紛議で処罰された橘広相を師事していたこともあります。

阿衡の紛議で藤原北家に不信感を抱いた宇多天皇は藤原氏以外の有能な側近を登用し天皇の権力を強化しようとします。道真も文官として登用され中納言まで昇進し基経の後継である時平と並びました。

菅原氏の急激な台頭は藤原氏や旧来の貴族に危機感を抱かせます。

宇多天皇の治世で急激に昇進した道真でしたが後継の醍醐天皇の時に事件が起こります。

醍醐天皇が即位した直後に道真は関白に準じて天皇を補佐する内覧の地位を与えられます。これに対し藤原氏を筆頭に一部の貴族は強く反発、政務参加を拒否する事態に発展しました。

そして、醍醐天皇も父である宇多上皇から独立の道を歩みはじめ宇多上皇と距離の近い道真を遠ざけるようになりました。

現天皇である醍醐天皇が道真を遠ざけたことにより反道真勢力が攻勢を強めます。道真が醍醐天皇を廃止して娘婿である斉世親王を即位させようと計画していると嫌疑をかけられたのです。

この疑いにより道真は失脚し九州の太宰府に左遷されることにありました。これが昌泰の変と呼ばれる藤原氏による菅原氏排斥事件です。

ただ近年の研究では時平と道真は対立関係ではなかったことが指摘されています。若き天皇を取り巻く複雑な環境が道真の排除につながり結果的には藤原氏を利することになったのは間違いない。

安和の変

藤原氏による他氏排斥事件の最後は昌泰の変から70年近く経った969年である。

事件は村上天皇が崩御したあとにおこりました。村上天皇は摂政関白を置かない親政「天暦の治」を目指しており天皇の権力が強い時代でした。

その村上天皇が崩御すると再び藤原氏が摂関政治を始めようとします。

藤原氏の摂関政治を嫌ったのが醍醐天皇の子で左大臣である源高明です。源高明は皇族出身ではありますが臣籍降下しており源の姓を下賜されていました。

摂関政治を目指す藤原実頼と天皇による親政を目指す源高明による対立が起こりました。

村上天皇亡き後の皇位継承争いで源高明が謀反を起こそうとしていると疑いが広められ源高明は捕えられ太宰府に左遷されることになりました。これが安和の変と呼ばれる藤原氏による他氏排斥事件の最後です。

源高明の左遷により藤原氏の他氏排斥は終了し権力を掌握することに成功。以後、藤原氏により摂政・関白が常に配置されるようになりました。

藤原氏による外戚政治

承和の変、応天門の変、阿衡の紛議、昌泰の変そして安和の変と政敵を下し天皇を越える権力を手中に収めた藤原北家。

大化の改新の功労者である中臣鎌足の子孫であるが一有力貴族である藤原一族がなぜ天皇を越える権力を手にすることができたのか?

その鍵は外戚という天皇に一族の娘を嫁がせるという手法です。

古来よりのしきたりにより天皇の皇子は母親の実家で育てることになっています。生まれた子の教育は母親がするということです。

この時代は家という組織に強い結束力があります。家の当主の権力が絶対的に強いということです。つまり、天皇の皇子の教育方針は母親ではなくその家の当主が決めることになります。

皇子からすれば自分の祖父に当たる人です。当然、自分の家の有利なように教育していきます。やがて皇子が天皇に即位すれば天皇に対し絶大な影響力を持つことになるのです。

藤原一族は代々天皇家に娘を嫁がせることで天皇の外戚となり実質的には天皇を通して自分の家に有利な政策をとることが可能になるというわけです。

当然、藤原一族が権力を持つことに反対する勢力も現れます。しかし、安和の変で政敵を屠ってきた藤原氏を脅かすほど力をもつ有力者が現れなくなります。

安和の変から役50年後の1016年に藤原道長が摂政に就任。翌1017年には道長は太政大臣に就任することになり『望月の歌』を読んだ。

そうして、藤原一族は何代も天皇家に娘を嫁がせ皇族と深く結びつき外戚というポジションから政治に対し絶対的な影響力を発揮していました。

しかし、藤原氏の栄華も道長で終わりを迎えます。道長の息子頼通には長く娘が生まれずようやく生まれた娘も次期天皇となる男児が生まれなかったのです。

得意の外戚政治を行えない藤原氏は急速に政治への影響力を失っていきました。

平将門の乱・藤原純友の乱

安和の変から少し時を戻す935年に政界を揺るがす大事件がおこります。

東日本で起きた平将門の乱(935年)と西日本で起きた藤原純友の乱(939年)です。二つの反乱を合わせて承平・天慶の乱とも呼びます。

武士の起こり

醍醐天皇の治世では班田収授が崩壊します。班田収授はいわば国が管理する田んぼから得た米いわば税のことです。国が管理できる税の徴収システムが崩壊したことを指します。

これまで、朝廷は人に税を課す人頭税を採用していました。しかし、戸籍を管理する能力を失った朝廷は土地に税を課すことします。

税をかけられた土地を名と呼びその土地を耕す農民を田堵と呼びました。

田堵(農民)が名(税をかけられた土地)を耕し税を収める体制を負名体制と呼びます。そして、田堵の中から広大な名を経営するものが現れるようになるのです。この名は大名の由来となっていくのです。

負名体制は貧富の差を拡大させることにもなりました。班田収授が崩壊し墾田永年私財法で土地を得た貴族や豪族は負名体制を用い大きな財を得ることになります。

しかし、この名を力ずくで奪おうとする人たちが現れます。名の領主はどのようにして自分の土地を守るのか?それは、自ら武装して土地を守るようになります。

このようにして、武装した農民や領主から武士が起こったと言われています。

平将門の乱

平将門は祖父の代に桓武天皇から平という姓をもらい現在の千葉県に当たるエリアの国司をしていたことから東日本に基盤がありました。

早くに父を亡くした将門は中央での出世は難しいと考え基盤のある関東に移ります。そこで、自分と敵対する勢力を制圧し関東を支配下に置くことに成功するのです。

民思いで正義感の強いとされる平将門は民たちからの信も厚くさまざまな相談事を持ちかけられることがありました。その相談事の中で常陸国の国司と敵対する事態に発展します。

常陸国と軍事的に衝突し圧勝することに成功した将門は常陸国に朝廷から与えられた印綬を略奪し常陸国を支配下に置きました。

印綬の略奪は明らかな朝廷への反逆です。朝廷は将門を地方の小さな勢力と侮っていたため鎮圧の初動が遅れてしまいます。

平将門はさらに関東8カ国を支配下に置き自らを新皇と名乗るようになりました。将門勢力の急激な台頭に驚いた朝廷は全国に平将門討伐の詔をだします。

そして、平将門の討伐に藤原秀郷と平貞盛が協力して出陣し平将門鎮圧に成功します。

藤原純友の乱

藤原純友は藤原北家出身で藤原基経を大叔父に持つ生まれに恵まれた存在でした。しかし、平将門と同じように早くに父を亡くしたことにより中央での出世の道を閉ざされてしまいました。

藤原純友は中央での出世を諦め四国の伊代国の国司に就任します。国司就任後は、瀬戸内海に出没した海賊の討伐をする仕事をしていました。

討伐した海賊たちの中には純友と似たような境遇の者たちが多くいることを知ります。純友も中央に対する不満を強く持っていたのでしょう。国司の任が終わっても純友は伊代国にとどまり今度は海賊の頭領として朝廷に反逆します。

平将門とほぼ同時期に発生した藤原純友の乱に朝廷は混乱します。中には平将門と藤原純友が通じていると考える者たちもいました。

朝廷は二つの乱を同時に鎮圧することはできないと判断。先に関東の平将門の乱の鎮圧を優先します。

朝廷は藤原純友にこれまでの海賊退治の功績を讃え褒美を与えると持ちかけ中央に呼び出します。純友もこの案を飲み中央へ出向します。

しかし、純友が中央に向かっている最中に平将門の反乱は鎮圧されることになります。朝廷はすぐさま純友討伐に小野好古を派遣することを決定します。

こうして、藤原純友率いる海賊と小野好古率いる朝廷軍が激突。善戦しますが規模の違う朝廷軍に追い詰められた藤原純友は捕まり中央へ輸送中に暗殺されてしまいます。

平将門の乱と藤原純友の乱の影響

この二つの反乱は朝廷軍単独での鎮圧ができず地方の有力者の力を借りなければならなかった朝廷の弱さを露見させることになります。

そして、武士の力を知らしめ以後台頭することになる武士の礎となったのです。

奥州藤原氏の誕生

平安時代も後期にさしかかると武士が力を持ち始めてきます。武士の起こりで記述したように律令制度が崩壊し増加した荘園(私有地)を守るため武力が必要となったことにより武士が力を持ち始めました。

古代の東北地方には蝦夷と呼ばれた人々が住んでいました。蝦夷は朝廷の支配下になかったのですが坂上田村麻呂により802年に出羽国と陸奥国以南まで平定されました。

蝦夷の人たちは戦が強く勝った朝廷は蝦夷の人たちを捕え朝廷の労働力として活用します。朝廷に降った蝦夷の人たちのことを俘囚と呼び全国へ兵力として派遣されるようになります。

坂上田村麻呂により出羽国、陸奥国以南を平定したしました。出羽国も陸奥国も初めは朝廷に従っていましたが陸奥国の阿部頼時が力をつけると、頼時は年貢を未納するなどし朝廷と対立するようになります。

前九年の役

朝廷に従わない素振りを見せる陸奥国の阿部頼期に朝廷は追討軍として源頼義を派遣します。
源頼義は清和天皇の決闘を継ぐ清和源氏の一族で河内で勢力を伸ばした河内源氏の源頼信の子で父と共に平忠常の乱を平定し源氏の名声を高めることに貢献した人物です。

源頼信は関東で英雄と呼ばれるほど力をつけ息子の頼義も英雄のことして名を馳せていました。

一方、阿倍頼時は平永衡や藤原経清を婿に迎え陸奥国で一大勢力を築き朝廷と対立の姿勢を強めていました。

源頼義は武勇に秀で英雄の息子ということもあり阿部頼時は頼義が攻めてきた際戦わずして降伏。一度は帰順の意を示しました。

しかし、頼義の部下が阿部氏の息子に襲撃されるという事件がおこりました。事情を聞こうと頼義は頼時を呼び出しますが頼時は応じませんでした。

そして、源頼義と阿倍頼時の対立は激化することになり、今度は合戦へと発展することになりました。

初めは地の利のある阿部氏優勢でしたが頼義は出羽国の俘囚と豪族の清原氏を援軍に加え阿部氏を滅亡さることに成功します。

前九年の役の影響

この合戦には武勇に優れた英雄の息子である源頼義も苦戦を強いられ9年にも及ぶ長い戦いになりました。

勝利した頼義は恩賞として阿部氏の治めていた陸奥国の支配権を主張しましたが認められず援軍として頼義と共に戦った清原氏へ与えられるました。

出羽国と陸奥国を支配することになった清原氏。しかし、後に一族同士での争いがおこります。これが後三年の役と呼ばれ奥州藤原氏が誕生するきっかけになりました。

敵方だった阿部氏に与した藤原経清の息子の藤原清衡と家衡は頼義により保護され母が清原氏に嫁いだことで清原清衡と名を変えます。
清原清衡は後三年の役の後に藤原の姓を名乗るようになり奥州藤原氏の祖となりました。

後三年の役

前九年の役の20年後1083年に陸奥を支配していた清原氏による一族同士の争いがおこります。

前九年の役で活躍した清原武則の孫である清原真衡が独断で平氏や源氏と婚姻関係を結び強権を振るうようになりました。

真衡には父親の違う二人の兄弟がいました。前九年の役で源頼義に保護された清衡と家衡です。

清原氏の内輪揉めその1

真衡と清衡、家衡はある事件から争いに発展しました。この争いには源頼義の子で陸奥国の国司に就任した義家が仲裁に入ります。

義家は真衡側の立場で仲裁を始めます。真衡の養子である平成衡と義家の妹が結婚していたのです。

義家からすれば真衡は身内のようなものだったので当然です。義家の力を借りることができた真衡は清衡と家衡を退けることに成功します。

しかし、真衡は病に倒れこの世を去ります。

真衡亡き後、義家は真衡の領地を清衡と家衡に分け与えることにします。

清原氏の内輪揉めその2

しかし、領地の分け方に不満を持った家衡が清衡の家を襲撃。今度は清衡と家衡で争うようになり後三年の役が始まりました。

義家は襲撃された清衡側で参戦。両軍激闘の末に家衡を討ち取ります。1087年のことでした。

奥州藤原氏の誕生

清原氏は清衡の元で一本化され陸奥は清原清衡が支配することになりました。清原清衡は陸奥の支配権を獲得すると親の姓であった藤原氏を名乗るようになります。

ここに東北に100年の栄華を築いた奥州藤原氏が誕生したのです。

後三年の役の影響

後三年の役は清原氏の内輪揉めに義家が勝手に介入したとし戦功も戦費も支払いませんでした。朝廷から戦費が支払われないため義家は自らの財から戦ってくれた東北の武士たちに報酬を払いました。この身を切った義家の行いに武士達は強く感謝することになり源氏と東北武士との間に強い結びつきが生まれます。この結びつきが後に鎌倉幕府を開く源頼朝の基盤になるのです。

院政の開始

後三年の役が1087年に集結し東北は奥州藤原氏が支配するようになりました。一方中央では支配構造に変化が訪れます。

後三年の役が始まった1083年の時の天皇は白河天皇です。白河天皇の一代前の後三条天皇の治世では藤原氏の没落が始まり約百年ぶりに摂政関白を置かない天皇による親政がおこなわれていました。

政務のトップが藤原氏から天皇へ戻ったということです。後三条天皇が退位し後を引き継いだ白河天皇が1086年に退位すると次の天皇は堀河天皇が即位することになりました。

しかし、政治の実権は退位した白河天皇が握るという現象がおこります。

退位した天皇は上皇と呼ばれるいわば天皇のOB的存在です。これまで権力のトップであった天皇のOBがそのまま権力を握り政治を行うことを院政と呼びます。

平安時代は日本の歴史の中でも最も天皇の数が多い時代ですが原因は院政によるものです。

院政は天皇が幼いため天皇をサポートするという立場から政治を行なっています。天皇が成人するまでの期間限定ということです。つまり、天皇が若く政治が行えなければ上皇が院政を継続して行うことができるというわけです。

そこに目をつけた白河天皇は堀河天皇が成人するとまた若い天皇を即位させます。鳥羽天皇です。

成人した天皇をすぐに退位させるので上皇という存在は複数存在します。上皇の中でもっとも権力を掌握した上皇が院政を開き政治をおこなうのです。皇室の中で実質的に権力を掌握し政治を行なったものを治天の君と呼びます。

このようにして、平安時代後期には上皇が院政をおこない実質的には天皇を超える権力を持つことになり治天の君として政治をおこなうようになりました。

院政と武士の関係

これまで権力の頂点に立っていた藤原氏が没落すると地方の豪族はこれまで寄進してきた荘園を院へ寄進するようになりました。権力と財力が上皇に集まるようになります。

白河上皇は「鴨川の水、双六の目、山法師以外はすべて思い通りにいく」と言葉を残すほどの権力を手に入れるようになりました。権力、財力を手に入れた上皇は武力まで手に入れるようになります。

院の御所つまり、上皇の居所に武士を雇い始めたのです。武士を配置した場所が院の御所の北側であることから配置された武士のことを北面の武士と呼びます。

律令制度を謳っている日本の政治体制は経済的にも支配構造的にも武力に関しても律令のトップである天皇の手から離れてしまいました。

さらなる武士の台頭

荘園が増加してきた頃から徐々に武士という存在が重要となってきていましたが白河上皇が北面の武士を配置したことによりさらに力をつけるようになります。

本来なら国の要職につけるのは天皇が与えた役職の序列により決まっていました。有力貴族が独占していた状態です。

しかし、天皇より上皇が権力を握ると上皇の部下が出世するようになります。上皇は朝廷とは別に自分の部下として有能な人材を雇うようになります。

上皇に直接雇われた人のことを院の近臣と呼びます。武士も上皇に直接雇われることにより院の近臣として権力を持つようになりました。

院の近臣として力をつけ始めた武士ですがこの時点では、上皇の部下にすぎません。

しかし、保元の乱と平治の乱という二つの戦を経て武士は上皇を超える権力を握るようになるのです。

保元の乱と平治の乱

武士が日本の権力の頂点に立つことになる保元の乱と平治の乱を簡単に説明します。

保元の乱(1156年)

まず、保元の乱は皇位継承問題から発展する戦です。白河天皇亡き後は崇徳上皇と後白河天皇の間で権力争いがおこります。

保元の乱は皇族、藤原氏そして、武士の2大巨頭である源氏と平氏がそれぞれ上皇側と天皇側で分かれて戦いました。

結果は、天皇側である後白河天皇が勝利。後白河天皇で戦った武士は平清盛と源義朝(頼朝の父)です。

この戦で後白河天皇が治天の君となり権力を掌握することになります。

保元の乱により権力を掌握した後白河天皇は1158年に二条天皇に譲位し上皇として院政を開始します。

保元の乱で政治のトップが決まると今度は武士の中で権力争いが起こるようになります。保元の乱で活躍した平清盛と源義朝の対決です。

平治の乱(1159年)

平治の乱は藤原氏の権力争いと源氏と平氏の権力争いが原因でおこりました。

結果は藤原通憲と平清盛の勝利で終わります。

この二つの戦は京都でおこりました。つまり、敗北により政治の中央である京都から退けられたことにより源氏が没落することになります。藤原通憲も平治の乱で暗殺されてしまい藤原氏、源氏、平氏の中で最後に残った平清盛が後白河上皇の院の近臣として力をつけることになり平氏が台頭するようになりました。

後白河法皇の院政

上皇として院政を開始した後白河上皇は1167年に平清盛を太政大臣に任命します。とうとう実質、武士が上皇についで2番目の権力者まで成り上がることになりました。

後白河上皇は1168年に出家し後白河法皇を名乗るようになります。出家することにより後白河法皇は仏教の後ろ盾を得ることにも成功。皇族のトップであり、最強武力を有する平清盛を配下にさらに仏教勢力の後ろ盾まで手にすることに成功するのです。

後白河法皇は二条天皇、六条天皇、高倉天皇と3代に渡り院政をおこない治天の君として君臨することになります。

そんな後白河法皇を脅かす存在が現れます。それが武士の頂点にたった平清盛です。

平家と源氏

院の近臣として権力をつけた平清盛が太政大臣に就任すると平家の力が急速に強まります。

平家の急速な台頭に従来の有力貴族や源氏の残党が不満を持つようになりました。

鹿ヶ谷の変

1177年平家の専横に貴族と寺院勢力が反発。後白河法皇と近臣たちによる平家打倒を鹿ヶ谷という場所で計画します。

しかし、鹿ヶ谷での平家打倒計画は平清盛にバレてしまい失敗。後白河法皇を幽閉してしまいます。

後白河法皇を幽閉した平清盛は1180年に都を平安京から兵庫県の福原へ強引に遷都しようとします。清盛の専横は京都周辺からも反発が強くおこり敵が少ない福原へ移ろうと計画したのです。

清盛のこの行動に反平家勢力は再び勢いを増していくことになります。

以仁王の令旨

後白河法皇の第三皇子である以仁王が打倒平家の兵をあげます。

以仁王は全国に平家打倒の令旨を出します。
自ら源氏の源頼政とともに挙兵しますが圧倒的兵力の前に惨敗。以仁王は早々にこの世をさります。

しかし、以仁王の令旨は各地の反平家勢力動かすことになります。

平家と源氏

以仁王の令旨により反平家勢力として担ぎ上げられたのが源頼朝です。頼朝の他にも木曽の義仲や甲斐の武田など有力武士が動き出します。

治承寿永の乱

治承寿永の乱または源平合戦と呼ばれる5年にわたる長い戦がおこります。

1180年に石橋山の合戦、富士川の合戦と一進一退の攻防を繰り広げた平家と源氏でしたが1181年平清盛が病死したことにより流れが源氏に傾きます。

1183年に木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いに勝つと勢いそのまま京都へ入京。平家を京都から追い出すことに成功します。

しかし、木曾義仲は京都での評判が悪く平家の方がマシだったと言われる始末。そこで解放された後白河法皇は関東に基盤のある頼朝を頼るようになります。

1184年には頼朝に変わり源義経が京都へ出兵。木曽義仲を滅ぼします。木曾義仲を滅ぼした義経は平家討伐へ向かい兵庫県の一ノ谷で平家に完勝。頼朝は公文所、問注所の設置を後白河法皇に認めさせます。

1185年には屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに勝利し5年にわたる治承寿永の乱は源氏の勝利で幕を閉じます。

平家を討伐した頼朝は後白河法皇に全国に守護、地頭の設置権を主張しそれを認めさすことに成功。源氏による武家政権の誕生です。

頼朝と義経の確執

平家討伐の立役者である義経ですが兄であり武士の頭領である頼朝と敵対することになります。

兄弟対決は兄の頼朝が勝利。義経は幼少期を過ごした奥州藤原氏の元へ逃げ延びますが頼朝の圧力に屈した奥州藤原氏の藤原泰衡に殺害されます。

義経を殺害し頼朝と敵対するつもりはないと訴えた奥州藤原氏でしたが頼朝は1189年に奥州討伐を決行。奥州藤原氏は鎌倉武士団により滅ぼされてしまいます。

そして、1192年に頼朝は征夷大将軍に任命され名実ともに鎌倉幕府が誕生することになりました。

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