1899年、日本では外国人が関わる事件も日本の裁判所で扱えるようになり、領事裁判権の撤廃が実現しました。しかし、幕末から続く不平等条約の問題が、これですべて解決したわけではありません。
輸入品にどれだけ関税をかけるかを、日本が自国の判断だけで決められない状態は残っていました。最後まで残ったこの問題が解決したのは、1911年。外務大臣の小村寿太郎がアメリカをはじめ各国と新しい条約を結び、関税自主権を回復したときでした。
なぜ領事裁判権の撤廃から、さらに12年も必要だったのでしょうか。この記事では、1911年の条約改正が実現するまでと、関税自主権を取り戻した意味をたどります。
条約改正完了をひとことで表すと
条約改正完了とは、1911年に日本が輸入品の関税率を自ら決める権利を回復し、1858年の不平等条約から続いた二つの大きな制約が解消されたことです。
| 改正した問題 | 条約で決まった年 | 実施・回復 | 中心人物 |
|---|---|---|---|
| 領事裁判権 | 1894年 | 1899年に撤廃 | 陸奥宗光・青木周蔵 |
| 関税自主権 | 1911年 | 1911年に回復 | 小村寿太郎 |
ここで大切なのは、条約改正が一度に完成したのではないことです。領事裁判権と関税自主権は、別々の段階で取り戻されました。
1858年からの交渉全体は、条約改正とは?なぜ治外法権はなくなったのかで詳しく解説しています。
関税自主権とは何か
関税とは、外国から輸入される商品にかける税金です。国は関税率を調整することで、国内産業を急激な輸入増加から守ったり、税収を確保したりできます。
ところが幕末に結んだ通商条約では、日本が関税率を一方的に変更することはできませんでした。1866年の改税約書によって輸入関税は原則5%という低い水準に抑えられ、その後も日本は外国との合意なしに自由な税率を設定できなかったのです。
つまり関税自主権の回復は、外交上の対等だけを意味するものではありません。日本が自国の産業・財政・貿易政策を、自らの判断で組み立てるために必要な権利でした。
1899年、なぜ条約改正はまだ終わらなかったのか
陸奥宗光が進めた1894年の日英通商航海条約では、領事裁判権を撤廃し、外国人にも日本の法律を適用することが決まりました。条約は5年の準備期間を経て、1899年に実施されます。
ただし関税については、日本に一定の引き上げが認められたものの、条約に付属する税率表の制約が残りました。日本が完全に自由な関税率を定められる状態ではなかったのです。
この条約には期限があり、1911年に満期を迎える予定でした。そこで明治政府は、次の条約で関税自主権を回復するための準備を進めます。
1911年の改正を可能にした背景
1911年の成功を、「日露戦争に勝ったから」の一言だけで説明することはできません。複数の条件が重なっていました。
- 条約の満期が近づいたこと:1894年に結んだ条約を更新する時期が来ていた
- 法制度と行政の整備:憲法、議会、裁判制度、民法・商法など、近代国家としての制度が積み重ねられていた
- 日本の国際的地位の変化:日清・日露戦争や日英同盟を経て、列強が日本を東アジアの主要国として扱うようになった
- 小村寿太郎の外交経験:駐米公使、駐露公使、外務大臣を歴任し、ポーツマス講和会議も担当していた
戦争による国力の評価は交渉の背景になりましたが、勝利だけで条約が自動的に変わったわけではありません。長く続いた制度整備と外交交渉があり、そのうえで条約の更新時期を迎えたことが重要でした。
小村寿太郎は、どのように最後の交渉を進めたのか
1908年、小村寿太郎は第2次桂太郎内閣の外務大臣に就任しました。1905年のポーツマス条約では、賠償金を得られなかったため国内から激しく批判されましたが、ロシアが戦争継続を拒むなかで講和条件をまとめた外交官でもありました。
陸奥時代に結んだ条約の満期を前に、小村は1910年から各国との改正交渉を本格化させます。最大の目標は、外国との協定で縛られていた関税率を、日本の法律で決められるようにすることでした。
1911年2月21日、アメリカのワシントンで新しい日米通商航海条約が調印されました。新条約には、日本の関税率を条約で固定する規定が置かれず、関税自主権の回復が認められます。
同年4月には東京で批准書が交換されました。アメリカとの改正を足がかりに、日本はイギリス、フランス、ドイツなどとも新しい条約を結びます。そして7月17日、改正関税定率法と各国との新条約が施行され、日本は関税率を自ら定められるようになりました。
条約改正完了までの流れ
| 年 | 出来事 | 何が変わったのか |
|---|---|---|
| 1858年 | 日米修好通商条約などを締結 | 領事裁判権を認め、関税率を自由に決められない条約体制が始まる |
| 1866年 | 改税約書 | 輸入関税が原則5%の低い水準に抑えられる |
| 1870年代 | 寺島宗則の交渉 | 関税自主権の回復を先行させようとしたが、主要国の反対で実現せず |
| 1894年 | 日英通商航海条約 | 領事裁判権撤廃を定め、関税率も一部引き上げる |
| 1899年 | 改正条約を実施 | 領事裁判権を撤廃。ただし関税の制約は残る |
| 1910年 | 小村外相が改正交渉を開始 | 条約満期を前に、関税自主権回復を目指す |
| 1911年2月 | 新しい日米通商航海条約を調印 | 関税自主権の回復が認められる |
| 1911年7月 | 新条約と改正関税定率法を施行 | 日本が自ら関税率を決められる体制になる |
関税自主権の回復は何を変えたのか
関税自主権を回復したことで、日本政府は国内の事情に合わせて関税率を設定できるようになりました。輸入品との競争に直面する国内産業を保護することも、財政収入を確保することも、自国の政策として選べるようになったのです。
また、幕末以来の二大課題だった領事裁判権と関税自主権の問題がともに解消されました。そのため1911年は、半世紀以上にわたる条約改正交渉の到達点と位置づけられています。
ただし、これは日本があらゆる面で「完全に対等」になったことを意味しません。国際社会には列強中心の秩序や人種差別が残り、日米間では移民をめぐる対立も深まっていました。条約上の制約がなくなったことと、国際関係のすべての不平等が消えたことは分けて考える必要があります。
主権を回復する日本と、朝鮮を支配する日本
1911年の条約改正を考えるとき、前年の1910年に日本が韓国を併合したことも見落とせません。
日本は欧米諸国から受けていた条約上の制約を解消する一方、朝鮮の主権を奪い、植民地として統治しました。自国の主権回復と他国への支配が、ほぼ同じ時期に進んでいたのです。
この二つを並べて見ると、条約改正完了は単純な成功物語ではありません。近代日本が列強と対等な関係を目指す過程で、自らも帝国主義的な拡大へ進んだという明治後期の姿が見えてきます。詳しくは韓国併合の記事で確認できます。
まとめ
1911年の条約改正によって、日本は関税自主権を回復しました。1899年の領事裁判権撤廃と合わせ、1858年以来の不平等条約がもたらした二つの大きな制約は解消されます。
そこへ至ったのは、戦争の勝利だけが理由ではありません。半世紀にわたる外交交渉、法制度の整備、国際関係の変化、そして条約満期を見据えた小村寿太郎の交渉が重なった結果でした。
一方で、条約上の主権を回復した日本は、朝鮮への植民地支配を進めていました。1911年は、近代国家としての自立と帝国化が同時に進んだ時代の節目でもあります。
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主な参考資料
- 大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、17頁、125頁、158〜159頁、245〜246頁
- 外務省外交史料館「小村寿太郎と関税自主権の回復」
- 外務省「外交史料Q&A 明治期」
- 税関「関税自主権回復までのあゆみ」

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