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鎌倉時代の動揺期|元寇から鎌倉幕府滅亡へ

鎌倉時代の動揺期は、元寇をきっかけに御家人の不満が高まり、鎌倉幕府が少しずつ弱まっていった時期です。

鎌倉幕府は、源頼朝が武士の政治を形にし、北条氏が執権政治で支えることで安定していきました。しかし、その安定は永遠には続きませんでした。

特に大きな転換点となったのが、モンゴル帝国による日本への攻撃、いわゆる元寇です。日本は元寇を退けましたが、その勝利は幕府にとって大きな負担を残しました。

このページでは、鎌倉時代の動揺期を、元寇・御家人の不満・永仁の徳政令・後醍醐天皇の討幕・鎌倉幕府の滅亡の流れで整理します。

図解で整理

鎌倉時代の動揺期は、3つの流れで見るとわかりやすい

元寇に勝った幕府は、かえって御家人の不満を抱えることになります。その不満が積み重なり、やがて幕府滅亡へつながっていきました。

目次

鎌倉時代の動揺期とは?

鎌倉時代の動揺期とは、幕府を支えていた御家人たちの不満が高まり、鎌倉幕府の力が少しずつ弱まっていった時期です。

鎌倉幕府は、御家人との関係で成り立っていました。幕府が御家人の土地を守り、御家人が幕府のために働く。この御恩と奉公の関係が、幕府を支える大切な土台でした。

ところが、元寇のあと、この関係が揺らぎ始めます。日本は外国からの攻撃を退けましたが、戦いに参加した御家人たちへ十分な恩賞を与えることが難しかったのです。

つまり鎌倉時代の動揺期は、幕府を支えていた仕組みそのものが、少しずつ苦しくなっていった時代でした。

動揺期の大きな流れ

勝ったのに、幕府は苦しくなった

元寇に勝つ

日本は文永の役・弘安の役で元軍の侵攻を退けました。

恩賞を与えにくい

外国との防衛戦だったため、新しい土地を得ることができませんでした。

御家人の不満が高まる

命がけで戦ったのに報われないという不満が、幕府への信頼を弱めていきました。

1. 元寇|鎌倉幕府を揺らした外国からの攻撃

鎌倉時代の後半、日本は大きな危機に直面します。それが元寇です。

元寇とは、モンゴル帝国を中心とする元の軍勢が、日本へ攻めてきた出来事です。1274年の文永の役、1281年の弘安の役の2度にわたって、日本は外国からの大規模な攻撃を受けました。

このとき幕府の中心にいたのが、執権の北条時宗です。北条時宗は元からの使者に強く対応し、御家人たちを動員して防衛にあたりました。

結果として、日本は元軍を退けました。しかし、元寇は鎌倉幕府にとって大きな負担となりました。戦いに勝っても、幕府の安定につながるとは限らなかったのです。

小さな年表

元寇の流れ

1274年|文永の役

元軍が日本へ攻めてきます。日本の武士たちは防衛にあたりました。

1281年|弘安の役

再び元軍が攻めてきますが、日本は防戦に成功しました。

戦後|御家人の不満

勝利したものの、新しい土地を得られず、十分な恩賞を与えることが難しくなりました。

2. なぜ元寇に勝ったのに、幕府は弱まったのか?

元寇は、日本にとっては大きな危機でした。そして、その危機を乗り越えたという意味では、幕府は大きな役割を果たしました。

しかし、問題は戦いのあとに起こります。

それまでの武士の戦いでは、勝てば敵から土地を奪い、その土地を恩賞として与えることができました。ところが元寇は、外国から日本を守るための防衛戦です。日本は勝っても、新しく配る土地を得ることができませんでした。

命がけで戦った御家人たちは、「働いたのに十分な見返りがない」と感じるようになります。これは、御恩と奉公で成り立っていた鎌倉幕府にとって、とても大きな問題でした。

図解で整理

御恩と奉公がゆらいだ理由

御家人の奉公

元寇で命がけで戦い、日本を守りました。

幕府の御恩

新しく与えられる土地が少なく、十分な恩賞を出しにくくなりました。

ここが大事

幕府を支えていた「御恩と奉公」の関係が、元寇後にうまく回りにくくなったのです。

3. 御家人の生活が苦しくなっていった

元寇後、御家人たちの不満はさらに高まっていきます。

御家人たちは、戦に備えるための費用や、鎌倉や京都での警備の負担を背負っていました。その一方で、土地は分割相続などによって細かく分かれ、生活が苦しくなる御家人も増えていきました。

幕府は御家人を救うために、1297年に永仁の徳政令を出します。これは、御家人が失った土地を取り戻させようとするものでした。

しかし、徳政令だけで御家人の問題を完全に解決することはできませんでした。むしろ、土地や借金をめぐる社会の混乱を示す出来事でもありました。

御家人の不満

幕府を支えた武士たちが苦しくなった

負担が増える

戦いや警備のために、お金や労力が必要になりました。

土地が細かくなる

相続などによって土地が分かれ、生活が苦しくなる御家人も出てきました。

永仁の徳政令

幕府は御家人を救おうとしましたが、根本的な解決にはなりませんでした。

4. 北条氏への不満も高まっていった

鎌倉時代の後半になると、幕府の政治は北条氏の中でも特に得宗と呼ばれる家系に力が集中していきました。

これにより、一部の有力者に政治の力が集まり、一般の御家人たちの不満はさらに高まりやすくなりました。

もちろん、北条氏の政治がすべて失敗だったわけではありません。元寇に対応し、日本を守ったことは大きな役割でした。しかし、戦後の恩賞問題や御家人の生活苦に十分対応しきれなかったことで、幕府への信頼は少しずつ弱まっていきました。

こうして鎌倉幕府は、外からの危機を乗り越えたあと、内側から揺らいでいくことになります。

5. 後醍醐天皇の討幕運動と鎌倉幕府の滅亡

鎌倉幕府が弱まる中で、幕府を倒そうと動いたのが後醍醐天皇です。

後醍醐天皇は、天皇中心の政治を取り戻そうとし、鎌倉幕府を倒す計画を進めました。最初は失敗もありましたが、幕府への不満が広がる中で、討幕の動きは大きくなっていきます。

そして1333年、足利尊氏が幕府から離れて後醍醐天皇側につき、新田義貞が鎌倉を攻めました。これにより、鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府の滅亡は、ただ一つの政権が終わっただけではありません。武士の政治はここで終わるのではなく、建武の新政、南北朝の動乱、そして室町幕府へとつながっていきます。

滅亡までの流れ

鎌倉幕府はこうして滅びた

元寇後の不満

御家人の生活が苦しくなり、幕府への信頼が弱まります。

後醍醐天皇の討幕運動

幕府を倒し、天皇中心の政治を目指す動きが強まります。

1333年|鎌倉幕府滅亡

足利尊氏や新田義貞らの動きによって、鎌倉幕府は滅びました。

6. 鎌倉幕府の滅亡は、武士の政治の終わりではなかった

鎌倉幕府は1333年に滅びました。しかし、武士の政治そのものが終わったわけではありません。

鎌倉幕府のあと、後醍醐天皇は建武の新政を始めます。しかし、その政治は武士たちの不満を十分に受け止めきれず、やがて足利尊氏が離反します。

その後、日本は南北朝の動乱へ進み、最終的には足利氏による室町幕府が成立していきます。

つまり鎌倉時代の動揺期は、鎌倉幕府が滅びる時代であると同時に、次の室町時代へ向かう入口でもあったのです。

7. まとめ|元寇後の不満が、鎌倉幕府を揺らした

鎌倉時代の動揺期は、元寇をきっかけに幕府の仕組みが揺らぎ、やがて鎌倉幕府滅亡へ向かっていった時代です。

日本は元寇に勝ちました。しかし、その戦いは新しい土地を得る戦いではなかったため、御家人に十分な恩賞を与えることが難しくなりました。

御家人の生活苦や幕府への不満が高まる中で、後醍醐天皇の討幕運動が起こり、1333年に鎌倉幕府は滅亡します。

つまり鎌倉時代の動揺期は、武士の政治が抱えていた限界が見え、次の時代へ大きく動き出した時期だったのです。

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