MENU
記事を探す

岩倉具視とは?公家から近代国家の指導者へ

当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

公家の家に生まれ、
朝廷の内側から、幕府を終わらせる政局を動かした人物がいます。

岩倉具視いわくらともみです。

公家という立場から、近代国家の指導者へ。
その転換は、明治維新という出来事の性格をよく表しています。

目次

王政復古期の朝廷政局を動かす

大政奉還ののち、新しい政治体制をどう作るかをめぐる政局で、
岩倉具視は朝廷側から、大久保利通や西郷隆盛ら討幕派と連携して動きました。

王政復古の大号令が発せられ、天皇を中心とする新政府が成立する過程に、
岩倉は深く関わっています。
大政奉還と江戸幕府の消滅|政権を返したのになぜ戦争になったのか【明治維新・第3編】

岩倉使節団を率いる

1871年(明治4年)、岩倉具視は特命全権大使として、
大久保利通、木戸孝允らとともに欧米諸国を視察する使節団を率いました。

使節団の名は、この岩倉の名にちなんで「岩倉使節団」と呼ばれています。

約1年10か月にわたる視察は、西洋の制度・技術を直接見聞きする機会となり、
帰国後の国内政策に大きな影響を与えました。

帰国後、西郷の使節派遣案に反対する

使節団から帰国した岩倉は、留守政府が進めていた西郷隆盛の朝鮮への使節派遣案に反対します。

この対立は明治六年政変へと発展し、西郷や板垣退助、江藤新平らが政府を去る結果となりました。
明治六年政変とは?西郷隆盛らはなぜ政府を去ったのか

外交経験が国内政策に与えたもの

岩倉具視の反対の背景には、使節団としてみずから確かめた、
西洋諸国と日本との国力の差への強い認識があったと考えられます。

朝廷の一員として幕末の政局に関わり、
やがて自らの目で世界を見て、国内政策の方向を左右する。

岩倉具視の歩みは、公家という古い身分の出身者が、
近代国家の指導者へと変わっていく、明治という時代そのものの縮図でもありました。

ひこまるとやたまるで理解するポイント

ひこまる

公家だった岩倉具視が、なぜ政治の中心に立てたの?

やたまる

朝廷と諸藩の動きを結び、政局を読む力を持っていたからなんじゃ。立場だけでなく、交渉と構想の力が大きかったんじゃよ。

ひこまる

岩倉使節団では、何を持ち帰ろうとしたの?

やたまる

条約改正だけでなく、西洋諸国の制度や産業、教育を広く見て、日本の国づくりへ生かそうとしたんじゃ。

あわせて読みたい

出典:山村竜也『世界一よくわかる幕末維新』祥伝社、2018年、142〜171頁、233〜245頁。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次