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武家諸法度とは?江戸幕府が大名を統制した決まりをわかりやすく解説

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武家諸法度とは、江戸幕府が大名を統制するために定めた法令です。大名の軍事行動や築城、婚姻などを幕府の許可制にし、違反した大名には改易(領地没収)や転封(領地替え)といった厳しい処分が科されました。1615年(元和元年)、大坂の役の直後に2代将軍・徳川秀忠の時代に初めて発布され、1635年(寛永12年)には3代将軍・徳川家光の時代に改定され、参勤交代が義務として明文化されたとされています。

目次

この記事でわかること

  • 武家諸法度が制定された時期と目的
  • 元和令と寛永令の違い
  • 違反した大名がどう処分されたのか
  • 改易・転封の具体的な事例
  • 武家諸法度が幕藩体制とどう関わっていたのか

武家諸法度はいつ、なぜ定められたのか

武家諸法度は、1615年(元和元年)、大坂の役で豊臣家が滅亡した直後に、2代将軍・徳川秀忠の時代に初めて発布されたとされています(元和令)。同じ時期に、朝廷や公家を統制する禁中並公家諸法度、寺社を統制する寺社諸法度もあわせて定められました。武家は武家諸法度、朝廷・公家は禁中並公家諸法度、寺社は寺社諸法度というように、統治の対象ごとに異なる法度を定めることで、幕府は大名・公家・寺社という統治対象それぞれに対する法的な支配の枠組みを整えたとされています。条文の冒頭には「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」とあり、大名に対して武芸と学問の両方をたしなむよう求める内容から始まっていたとされています。大坂の役によって戦国以来の大きな戦がひとまず終わったこの時期に、幕府があらためて大名統制の法的な枠組みを整えたことは、平和な時代の統治体制への転換点だったとも考えられます。

元和令と寛永令の違い

武家諸法度は一度制定されて終わりではなく、将軍が代わるたびに改定されました。特に大きな改定は、1635年(寛永12年)、3代将軍・徳川家光の時代に行われたもので、寛永令と呼ばれています。この改定で、大名が江戸と領地を定期的に往復する参勤交代が義務として明文化されました。それまでも大名が江戸に出仕する慣習はあったとされますが、これを法令として明文化したことで、大名は参勤交代を守るべき義務として意識せざるを得なくなったといえます。あわせて、500石以上の大型の船を建造することも禁止され、大名が独自に軍事力を強化することを防ぐ狙いがあったと考えられています。元和令が大名統制の基本方針を示したものだったのに対し、寛永令はより具体的な統制策を盛り込んだ改定だったといえそうです。武家諸法度はその後も将軍の代替わりのたびに見直され、内容が少しずつ更新されていったとされています。

違反した大名はどう処分されたのか

武家諸法度に違反した大名や、跡継ぎが定まらないまま当主が亡くなった大名(無嗣断絶)は、改易(領地没収)や転封(領地替え)といった処分を受けることがあったとされています。代表的な事例として、広島藩主・福島正則が、幕府に無断で城の修築を行ったことを理由に、1619年に領地を減らされて転封となった例が伝わっています。城の修築は武家諸法度で厳しく制限されており、たとえ災害復旧のための修理であっても、事前に幕府への届け出が必要だったとされ、福島正則の事例はこの規定が実際に運用されていたことを示す例だといえます。また、大名家の後継争いや家臣同士の対立から生じる「御家騒動」も改易の一因となり、仙台藩の伊達騒動、黒田藩の黒田騒動、加賀藩の加賀騒動は「三大御家騒動」として知られています。改易は必ずしも大名にとって不運なだけの出来事ではなく、改易された大名の旧領を新たに任される形で栄転する大名もいたとされています。つまり改易は、一部の大名にとっては領地を失う出来事であると同時に、別の大名にとっては新たな領地を得る機会にもなっていたということになります。

改易は誰に、どれくらい行われたのか

将軍ごとの改易件数を見ると、初代家康から3代家光までの、いわゆる武断政治の時代に改易が集中していたとされています。記録によれば、家康の代に28件、秀忠の代に23件、家光の代に28件、4代家綱の代に16件、5代綱吉の代に17件の改易があったとされ、その多くは跡継ぎが定まらないまま当主が亡くなる無嗣断絶が理由だったとされています。初代から3代までの武断政治の時代に改易件数が多いのは、幕府の支配体制がまだ確立しきっていない時期であり、大名の力を抑え込む必要性が特に高かったためだと考えられます。この改易の対象は、親藩・譜代・外様を問わず幅広い大名に及んでおり、特定の系統の大名だけが狙われたわけではなかったようです。「幕府が外様大名ばかりを狙い撃ちにした」という見方をされることもありますが、実際には親藩や譜代の大名も同様に改易の対象になっており、単純な図式では説明しきれない面があります。改易は、大名の出自にかかわらず、武家諸法度という共通のルールに違反したかどうかで判断される制度だったといえそうです。8代将軍・徳川吉宗が、当主の死の直前に養子を認める「末期養子」の制度を認めたことで、無嗣断絶を理由とする改易は大きく減ったとされています。

武家諸法度と幕藩体制の関係

武家諸法度は、江戸幕府と藩がそれぞれの役割を分担して国を治めた仕組みである幕藩体制を、法律の面から支えた制度だったとされています。幕府が大名に対して一方的に命令するだけでなく、明文化された法度という形で統治のルールを示したことは、大名にとっても、何をすれば処分されるのかがある程度予測できるという意味を持っていたと考えられます。大名の行動を細かく規定し、違反すれば改易・転封という現実的な処分が下されることで、幕府は大名を服従させる仕組みを作り上げました。同じく大名統制の柱であった参勤交代とあわせて、武家諸法度は幕藩体制を支える二本柱の一つだったといえそうです。法令によるルールづくりと、参勤交代のような実際の負担を伴う制度とが組み合わさることで、大名を統制する仕組みがより実効性のあるものになっていたと考えられます。

まとめ

武家諸法度は、1615年に初めて発布され、1635年の改定で参勤交代を義務化するなど、江戸時代を通じて大名統制の基本法として機能した制度だったと考えられています。違反や無嗣断絶に対する改易・転封という現実の処分があったことで、大名は幕府の定めた枠組みを守らざるを得なかったとされています。こうした統制の背景には、上下関係や秩序を重んじる儒学・朱子学の思想も関わっていたと考えられています。参勤交代とあわせて、江戸幕府が全国の大名をどのように統制していたかを理解するうえで欠かせない制度と言えそうです。

参考資料

『テーマ別だから政治も文化もつかめる江戸時代』
伊藤賀一 監修/かみゆ歴史編集部 編
朝日新聞出版、2022年

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