「室町幕府」と聞くと、多くの人は「足利尊氏が開いた武士の政権」というイメージを持っていると思います。でも、いつ・どこで・どうやって始まったのか、はっきり説明できる人は意外と少ないのではないでしょうか。
実は室町幕府の始まりは、鎌倉幕府のように「ある日突然、将軍が任命されて終わり」という単純な話ではありません。京都という土地の選択、後醍醐天皇との対立、そして「建武式目」という1本の法令――これらが組み合わさって、ようやく新しい武家政権の姿が固まっていきます。
この記事では、室町幕府がどのように成立したのかを、背景・経緯・結果という3つの軸でやさしく整理していきます。
ひこまる室町幕府って、いつ始まったの?1336年って習った気がするけど、それで合ってる?



おおむね合っておるが、正確には「いつ」だけでなく「何をもって成立とするか」が大事なんじゃ。今日はそこをじっくり見ていくぞ。
結論:室町幕府はどうやって成立したのか
室町幕府の成立は、足利尊氏が京都に入って光明天皇を立てたことだけでは完成しません。1336年11月、武家政権の方針をまとめた「建武式目」が定められたことで、政治の方向性が示され、室町幕府は実質的に動き出したと考えられています。つまり室町幕府の成立とは、軍事的な勝利と、政治方針を示す法令の両方がそろって初めて成り立った出来事です。
室町幕府の成立とは何か
室町幕府の成立とは、足利尊氏が鎌倉幕府滅亡後の混乱を経て、京都を本拠地とする新しい武家政権を打ち立てた出来事のことです。
鎌倉幕府が1333年に滅びたあと、後醍醐天皇による「建武の新政」という天皇中心の政治が始まりました。しかし武士たちの不満は強く、尊氏は後醍醐天皇と対立し、京都を制圧します。
ここで尊氏が選んだのは、鎌倉ではなく京都に政権を置くという道でした。京都は朝廷があり、経済的にも政治的にも日本の中心地です。武士の政権でありながら、京都を拠点にすることで、朝廷や公家社会と密接に関わりながら統治するという、鎌倉幕府とは違う新しいスタイルの幕府が生まれていきます。
そして1336年11月7日、尊氏は法律の専門家であった是円・真恵兄弟に命じて、武家政権としての基本方針をまとめた「建武式目」17条を制定しました。この建武式目の制定をもって、室町幕府は実質的に成立したとされています。
なぜ室町幕府は生まれたのか
鎌倉幕府滅亡後の権力の空白
1333年に鎌倉幕府が滅びたあと、しばらく日本の政治の中心は後醍醐天皇による建武の新政でした。しかしこの政治は、武士の働きに見合った恩賞を十分に与えられないなど、武士たちの不満を集めてしまいます。武士たちを束ねる新しい仕組みが必要とされていました。
武士が求めていたのは「武士のための政治」
鎌倉幕府の時代、武士たちは御家人として土地や地位を保証されてきました。ところが建武の新政では、天皇と公家が政治の中心となり、武士の利益が後回しにされがちでした。尊氏のもとに多くの武士が集まったのは、「武士の立場を守ってくれる政権」を求めていたからです。
京都という場所の意味
尊氏が鎌倉ではなく京都を選んだことには大きな意味があります。京都には朝廷があり、政権の正統性を示すには天皇の存在が欠かせません。尊氏は光明天皇を立てることで、自分たちの政権に「正しさ」を与えようとしました。一方で、建武式目の中には「本来は鎌倉に幕府を置くべきだ」という意見も記されており、京都に置くことはあくまで当面の判断だったことがうかがえます。



本当は鎌倉に幕府を置きたかったの?でも京都にしたんだよね。



そうじゃ。建武式目にもそう書かれておる。じゃが京都には朝廷があり、武士の政権に「お墨付き」を与えられる場所でもあった。理想と現実のはざまで、尊氏たちは京都を選んだのじゃ。
誰が関わったのか
室町幕府の成立に関わった中心人物は、足利尊氏です。鎌倉幕府の有力な武士の家に生まれ、後醍醐天皇の倒幕に協力したのち、最終的には天皇と袂を分かち、新しい武家政権の頂点に立ちました。
尊氏の弟である足利直義も重要な役割を担います。直義は政務全般を取りまとめる立場にあり、建武式目の制定にも深く関わったと考えられています。尊氏が軍事面を、直義が政治・行政面を担うという、兄弟による役割分担が、初期室町幕府を支えました。
法令づくりの実務を担ったのは、明法家(法律の専門家)である是円・真恵の兄弟です。彼らが御家人たちへの聞き取りをもとに建武式目をまとめあげました。
どのように室町幕府は成立したのか
経緯をミニフローで整理します。
- 1333年:鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まる
- 1335年:足利尊氏が中先代の乱を鎮めたのち、後醍醐天皇と対立する道を選ぶ
- 1336年前半:尊氏がいったん京都を制圧したのち敗れて九州へ退き、再び勢力を立て直して入京する
- 1336年8月:光明天皇(北朝)が即位し、尊氏が政権の正統性を確保する
- 1336年11月7日:建武式目17条が制定され、武家政権の基本方針が示される
- この時点をもって、室町幕府は実質的に成立したとされる
建武式目の内容は、守護(地方の軍事・行政を担う武士)を功績だけでなく能力や人格で選ぶべきこと、贅沢を慎み倹約を心がけること、賄賂を取り締まることなど、政治の理想像を示すものでした。鎌倉幕府の「御成敗式目」を意識しつつ、新しい政権としての姿勢を示した点が特徴です。
結果どうなったのか
建武式目の制定によって、室町幕府は「武士のための政治方針を示した政権」として動き出しました。ただし、この時点ではまだ後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を立てており、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝時代が始まります。室町幕府の成立は、同時に南北朝という新しい対立構造の始まりでもありました。
また、尊氏・直義の兄弟による役割分担は、当初は政権を安定させましたが、のちに二人の間で対立が深まり、「観応の擾乱」という内部抗争に発展していきます。室町幕府の成立期は、安定とはほど遠い、厳しい火種を抱えたスタートだったといえます。
室町時代全体への影響
室町幕府の成立は、その後約240年続く室町時代の出発点になりました。京都に政権を置いたことで、幕府は朝廷・公家社会と密接に関わりながら統治するという、鎌倉幕府とは異なる政治スタイルを作り出します。これは、のちに室町文化が公家文化と武家文化の融合として発展していく土台にもなりました。
また、建武式目で示された「能力や人格で守護を選ぶべき」という理想は、必ずしも現実の政治では守られませんでした。むしろ室町時代を通じて、守護大名が力をつけて幕府の統制が揺らいでいく構図が続きます。建武式目に示された理想と、その後の現実のギャップ自体が、室町時代という時代を理解するうえで重要な視点になります。
関連人物・関連出来事
- 足利尊氏:室町幕府初代将軍。建武式目制定を主導した中心人物
- 足利直義:尊氏の弟。建武式目の制定や初期幕府の政務を担った
- 建武式目:室町幕府の基本方針を示した17条の法令(別記事で詳しく解説)
- 南北朝の動乱:室町幕府成立と同時に始まった、北朝と南朝の対立(別記事で詳しく解説)
- 建武の新政:室町幕府成立の直前にあった、後醍醐天皇による天皇中心の政治
まとめ
室町幕府の成立は、足利尊氏が京都に新しい武家政権を打ち立てた出来事です。鎌倉幕府滅亡後の混乱の中で、武士たちの支持を集めた尊氏は、京都という土地を選び、1336年11月の建武式目制定によって政治方針を示しました。これをもって、室町幕府は実質的に成立したとされています。ただし、それは安定の始まりではなく、南北朝という新しい対立、そして兄弟間の確執という新たな火種を抱えたスタートでもありました。
現代への学び
新しい組織やルールを作るとき、「形を作ること」と「方針を示すこと」は別物だという点は、現代にも通じる教訓です。建武式目は、武家政権という新しい「組織」の理念や行動基準を、最初の段階で言葉にして示したものでした。理想を掲げることと、それを実際に守り続けることの間には大きな距離があることも、その後の室町幕府の歴史が物語っています。理想と現実のギャップにどう向き合うかは、組織づくりに関わるすべての人にとって、今も変わらないテーマです。



理想を掲げても、その通りにはいかなかったんだね。



その通りじゃ。理想を示すこと自体に価値はあるが、それを守り続けるのはもっと難しい。室町幕府の歴史は、それをずっと示してくれておるのじゃ。
関連記事(ジャパレキ内)
- 足利尊氏とはどんな人?室町幕府を開いた武士をやさしく解説
- 足利直義|尊氏の弟:政権運営を担い、のちに将軍家の内紛を深めた
- 建武の新政の流れをわかりやすく解説|失敗の理由と南北朝時代へのつながり
- 南北朝時代とは?日本史で唯一「二つの朝廷」が並立した時代
- 室町時代まとめ|7つのテーマから読む入口ガイド【初心者向け】
- 室町時代の出来事一覧|流れがわかる年表と重要事件まとめ
参考資料・参考図書
- 「室町幕府」「足利尊氏」「建武式目」 – Wikipedia
- 「建武式目」 – コトバンク(国史大辞典・日本大百科全書)
- まなれきドットコム「建武式目とは?その内容・制定背景を簡単にわかりやすく紹介!」


コメント