「建武式目」という言葉を聞いたことはあっても、それが具体的にどんな内容だったのか、説明できる人は少ないかもしれません。
建武式目は、足利尊氏が新しい武家政権を立ち上げるにあたって、1336年に定めた17条の法令です。法律というよりも、「これからどんな政治をするのか」という方針書のような性格を持っています。
この記事では、建武式目がどのように作られ、何が書かれていたのか、そしてそれが室町幕府にとってどんな意味を持っていたのかを整理します。
ひこまる「建武式目」って名前だけ聞くと法律っぽいけど、御成敗式目と何が違うの?



ふむ、ええ質問じゃ。御成敗式目は本格的な法典じゃが、建武式目は新しい政権の「方針書」のようなものなんじゃ。今日はその違いを見ていくぞ。
結論:建武式目はどういうものだったのか
建武式目は、足利尊氏が明法家(法律の専門家)である中原是円・真恵兄弟に命じて作らせた17条の法令で、「政権の本拠地をどこに置くか」「どのような政治を行うべきか」という2つの問いに答える形でまとめられました。室町幕府の事実上の出発点とされる重要な文書です。
建武式目とは何か
建武式目とは、1336年(建武3年)11月7日に定められた、足利尊氏の新政権による政治方針を示した17条の法令です。
内容は大きく2つの部分に分かれています。最初に「政権の本拠地を鎌倉に戻すべきか、それとも別の場所にすべきか」という問いが立てられ、続いて「これからどのような政治を行うべきか」という17項目の心得が示されました。
名前に「式目」とついていますが、鎌倉幕府の「御成敗式目」のような体系的な法典とは少し性格が異なります。建武式目は、罰則を細かく定めた法律というより、新しい政権がどんな姿勢で政治に向き合うべきかを示した、いわば「政治方針書」でした。
なぜ建武式目は作られたのか
新しい政権には「方針」が必要だった
足利尊氏は1336年に京都を制圧しましたが、軍事的な勝利だけでは政権として認められません。鎌倉幕府が滅びてからすでに3年が過ぎており、武士たちは「次の政権がどんな政治をするのか」を見極めようとしていました。尊氏には、自分たちの政権の方向性を、誰の目にも分かる形で示す必要がありました。
御成敗式目という「前例」を意識した
鎌倉幕府は1232年、3代執権・北条泰時のもとで「御成敗式目」という法令を定め、武士の社会に一定のルールを示しました。建武式目は、この御成敗式目を強く意識して作られています。新しい政権が前の幕府の良い部分を引き継ぎつつ、自分たちなりの政治を行うという姿勢を見せる狙いがあったと考えられます。
守護や武士たちの不満を抑える必要があった
建武の新政(後醍醐天皇による政治)では、武士の働きに見合った恩賞が十分に与えられないという不満が広がっていました。尊氏としては、武士たちの支持を維持するために、「公正な政治を行う」という姿勢を早い段階で打ち出す必要がありました。



鎌倉に戻すか京都にするか、ちゃんと結論出したのかな?



それがな、是円たちは「民の声に従うべき」とはっきり決めなかったんじゃ。最終的に決めたのは尊氏自身じゃぞ。
誰が関わったのか
建武式目の起草を実際に担当したのは、中原是円とその弟の真恵という、明法家(法律・先例に通じた学者)の兄弟です。2人は足利尊氏から命じられ、御家人をはじめとする関係者からの意見を聞きながら式目をまとめました。
この事業を主導したのは足利尊氏ですが、政務全般を取りまとめていた弟の足利直義も、建武式目の制定に深く関わったと考えられています。軍事を尊氏が、政治・行政を直義が担うという初期室町幕府の役割分担が、この場面にも表れています。
どう進んだのか
経緯をミニフローで整理します。
- 1336年6月:足利尊氏が京都に入り、政権の立て直しを進める
- 1336年8月:光明天皇(北朝)が即位し、尊氏が政権の正統性を確保する
- 1336年秋:尊氏が中原是円・真恵兄弟に新政権の方針づくりを命じる
- 是円・真恵が関係者への問いかけをもとに内容をまとめる
- 1336年11月7日:建武式目17条が制定・公布される
建武式目はまず、「政権の本拠地を鎌倉に戻すべきか」という問いを立てました。これに対し是円らは、明確な結論を避け、「民の声に従うべきだ」という慎重な答えを示しています。最終的に尊氏が選んだのは、京都に本拠を置くという道でした。
続く17条では、贅沢を慎み倹約を心がけること、賄賂を取り締まること、守護を功績だけでなく人格や能力で選ぶこと、訴訟を速やかに公正に処理すること、人々の意見によく耳を傾けることなど、新政権が目指す政治の理想像が並べられました。
結果どうなったのか
建武式目の制定によって、足利尊氏の政権は「武士のための公正な政治を目指す」という方針を、はっきりと外に示すことができました。これにより、軍事的な勝利だけでなく、政治方針を示す法令がそろったことで、室町幕府は実質的に動き出したとされています。
ただし、建武式目で示された理想がそのまま実現したわけではありません。守護を人格や能力で選ぶという方針は、現実の政治の中で次第に揺らいでいき、守護たちが力を強めていく流れは、その後の室町時代を通じて続いていきます。
室町時代全体への影響
建武式目は、室町幕府がどのような政権であろうとしたかを示す、最初の「宣言文」のような役割を果たしました。鎌倉幕府の御成敗式目を意識しつつ、新しい政権としての姿勢を示したことは、室町幕府が単なる軍事政権ではなく、政治理念を持った政権であろうとしたことを物語っています。
一方で、建武式目に示された理想と、その後の室町時代の現実との間には大きなギャップがありました。守護大名が力を強め、幕府の統制が次第に揺らいでいく室町時代の展開を理解するうえで、出発点に何が掲げられていたかを知ることは大きな手がかりになります。
関連人物・関連出来事
- 足利尊氏:建武式目の制定を命じた室町幕府初代将軍
- 足利直義:尊氏の弟。建武式目の制定や初期幕府の政務に深く関わった
- 中原是円・真恵:建武式目の起草を実際に担った明法家兄弟
- 御成敗式目:鎌倉幕府が1232年に定めた法令。建武式目が強く意識した前例
- 室町幕府の成立:建武式目の制定と並ぶ、室町幕府成立の重要な出来事
まとめ
建武式目は、足利尊氏が新しい武家政権の方針を示すために、1336年11月に定めた17条の法令です。政権の本拠地をどこに置くかという問いと、どのような政治を行うべきかという心得をまとめたこの文書は、鎌倉幕府の御成敗式目を意識しながら、室町幕府が目指す政治の理想像を描き出しました。その理想がそのまま守られたわけではありませんが、室町幕府がどんな政権であろうとしたのかを知るうえで、欠かせない出発点です。
現代への学び
新しい組織やチームを立ち上げるとき、「これからどんな方針で進むのか」を最初に言葉にして示すことには大きな意味があります。建武式目は、武家政権という新しい「組織」が、自分たちの理想を最初の段階で明文化した記録でもあります。理想を掲げることと、それを実際に守り続けることの間には距離があるとしても、最初に方針を示すこと自体が、組織の土台を作る大切な一歩になるのではないでしょうか。



理想を最初に言葉にするだけでも意味があるんだね。



その通りじゃ。掲げた理想を守り続けるのは難しいが、まず示すことが土台になるんじゃぞ。
関連記事(ジャパレキ内)
- 足利尊氏とはどんな人?室町幕府を開いた武士をやさしく解説
- 足利直義|尊氏の弟:政権運営を担い、のちに将軍家の内紛を深めた
- 建武の新政の流れをわかりやすく解説|失敗の理由と南北朝時代へのつながり
- 南北朝時代とは?日本史で唯一「二つの朝廷」が並立した時代
- 室町時代まとめ|7つのテーマから読む入口ガイド【初心者向け】
- 室町時代の出来事一覧|流れがわかる年表と重要事件まとめ
参考資料・参考図書
- 「建武式目」「足利尊氏」「御成敗式目」 – Wikipedia
- 「建武式目」 – コトバンク(国史大辞典・日本大百科全書)
- まなれきドットコム「建武式目とは?その内容・制定背景を簡単にわかりやすく紹介!」


コメント