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守護大名と戦国大名の違いとは?わかりやすく解説

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戦国時代の武将を学んでいると、「守護大名しゅごだいみょう」と「戦国大名」という言葉が出てきます。どちらも「大名」ですが、その意味はまったく異なります。この違いを理解することが、戦国時代の人物を深く理解するための第一歩です。

目次

3行でわかる守護大名しゅごだいみょうと戦国大名の違い

守護大名しゅごだいみょうは室町幕府から任命された地方の行政長官で、幕府の権威を後ろ盾とした。
戦国大名は幕府の権威に頼らず、自らの実力(兵力・経済力・外交)で領国を直接支配した。
守護大名しゅごだいみょうが「肩書きで支配した大名」なら、戦国大名は「力で支配した大名」。

守護大名しゅごだいみょうとは何か

守護大名しゅごだいみょうとは、室町時代に幕府(将軍)から「守護」の地位を与えられた大名のことです。もともと「守護」とは、鎌倉時代から続く役職で、一国の軍事・警察を担当する職でした。

室町時代になると、守護は単なる軍事指揮官にとどまらず、領国内の徴税権(半済令はんぜいれいなど)や裁判権まで握るようになり、実質的な地方領主となっていきます。これが「守護大名しゅごだいみょう」と呼ばれる存在です。

守護大名しゅごだいみょうの特徴は、その権力が「幕府からの任命」に依存していた点です。幕府の力が強いうちは安定していましたが、幕府の権威が衰えると守護大名しゅごだいみょうの立場も揺らぎました。また、守護大名しゅごだいみょうの多くは京都に常駐し、領国の実務は現地の代官(守護代しゅごだい)に任せていたため、領国との関係が希薄になりがちでした。

代表的な守護大名しゅごだいみょうとしては、細川氏(摂津せっつ讃岐さぬきなど複数国を管轄)、山名氏(一時11か国の守護職しゅごしょくを独占)、大内氏(西国に強大な影響力)などが挙げられます。

戦国大名とは何か

戦国大名とは、幕府の権威によらず、自らの実力で一国以上を支配した大名のことです。室町幕府の権威が失墜していく15世紀後半〜16世紀にかけて、各地で台頭しました。

戦国大名が守護大名しゅごだいみょうと決定的に異なるのは、「実力で権力を獲得・維持した」点です。幕府から任命されるのではなく、自ら戦って領国を切り取り、独自の法律(分国法ぶんこくほう)・検地・軍役制度を整備して直接支配しました。

また、戦国大名は京都にいる必要がなく、領国内に城下町を築いて本拠とし、家臣団を整備して強力な軍事力を持ちました。富国強兵(領国を豊かにしながら兵力を増強する)が基本的な戦略です。

守護大名しゅごだいみょうと戦国大名の決定的な違い

2つの違いを整理すると、次のようになります。

項目守護大名しゅごだいみょう戦国大名
権力の源室町幕府からの任命自らの実力(武力・経済力)
居住地京都が多い領国の城下町
領国支配代官(守護代しゅごだい)に委任直接支配
法律・制度幕府法に依存独自の分国法ぶんこくほうを制定
財政基盤荘園しょうえん制・年貢収取検地・商業振興・鉱山開発
軍事力家臣の寄せ集め直属の家臣団・常備軍

なぜ守護大名しゅごだいみょうは衰え、戦国大名が台頭したのか

1467年に始まった応仁の乱おうにんのらんは、室町幕府の権威を決定的に失墜させました。約10年にわたる内乱で、幕府は実質的に地方を統制する力を失います。

この権力の空白を埋めたのが「下剋上げこくじょう」の論理です。守護大名しゅごだいみょうの家臣(守護代しゅごだい)や、その下の国人領主こくじんりょうしゅたちが、主君を倒して権力を奪うケースが相次ぎました。「家柄や肩書き」ではなく「実力」が支配の正当性の根拠となったのです。

また、守護大名しゅごだいみょうが京都に住んで幕府政治に参加している間に、領国を任された守護代しゅごだいが実権を握るケースも多くありました。斎藤道三さいとうどうさん美濃みの)、長尾景虎ながおかげとら越後えちご)など、代官・守護代しゅごだい出身の戦国大名が多いのはこのためです。

具体的な移行の例

北条早雲:守護代しゅごだいの代官から戦国大名へ

後北条氏ごほうじょうしの祖・北条早雲伊勢宗瑞いせそうずい)は、今川氏の家臣という立場から、1493年に伊豆を奪取しました。幕府から守護職しゅごしょくを得たわけではありません。「自力で奪った土地を実力で支配する」という戦国大名の典型的な誕生例です。

上杉謙信うえすぎけんしん守護代しゅごだいから戦国大名へ

越後えちご上杉謙信うえすぎけんしんは、もともと守護代しゅごだい・長尾家の出身です。越後えちご守護・上杉氏を凌ぐ実力を持ち、最終的に上杉の名跡を継ぎました。幕府の任命ではなく、実力によって越後えちごを支配した戦国大名の好例です。

武田信玄たけだしんげん守護大名しゅごだいみょうの子から戦国大名へ

甲斐の武田信玄たけだしんげんは、守護大名しゅごだいみょう武田信虎たけだのぶとらの子として生まれました。父を追放して家督を継いだ後、領国経営を整え、独自の分国法ぶんこくほう甲州法度之次第こうしゅうはっとのしだい」を制定し、信濃へ領土を拡大。守護大名しゅごだいみょうの家系でありながら、統治スタイルは典型的な戦国大名に変化しました。

織田信長が完成させた「戦国大名の論理」

この流れの到達点が織田信長です。信長は1573年に最後の室町将軍・足利義昭を追放し、室町幕府を事実上滅亡させました。これにより「幕府の権威」という守護大名しゅごだいみょうの根拠は完全に消滅しました。

信長は楽市楽座・指出検地さしだしけんち・直轄軍(旗本衆)整備など、実力主義の支配体制を徹底しました。「守護大名しゅごだいみょうの論理(肩書きによる支配)」から「戦国大名の論理(実力による支配)」への移行を完成させた人物と言えます。

まとめ

守護大名しゅごだいみょうは「幕府から任命された、肩書きで支配する大名」であり、戦国大名は「自らの実力で領国を切り取り、直接支配する大名」です。

応仁の乱おうにんのらん(1467年)をきっかけに室町幕府の権威が崩れ、「守護大名しゅごだいみょうの時代」から「戦国大名の時代」へと移行しました。北条早雲・斎藤道三さいとうどうさんのような「下剋上げこくじょうの雄」や、武田信玄たけだしんげん上杉謙信うえすぎけんしんのような「守護大名しゅごだいみょうの家を戦国大名へと脱皮させた人物」など、さまざまなパターンで戦国大名は誕生しました。

この違いを理解すると、戦国時代の武将たちがなぜそれほど激しく争ったのかが、より鮮明に見えてきます。

参考資料

小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年。
小和田哲男監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年。

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