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加藤清正とは?賤ヶ岳七本槍の筆頭・熊本城を築いた武将をわかりやすく解説

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加藤清正かとうきよまさ(1562〜1611年)は、豊臣秀吉とよとみひでよしの縁戚にあたる人物で、幼少から秀吉ひでよしに仕えた武将です。賤ヶ岳しずがたけの戦いでは「七本槍の筆頭」として名を上げ、文禄・慶長の役ぶんろく・けいちょうのえきでは朝鮮に出兵して「虎退治」の逸話で知られるようになりました。秀吉ひでよしの死後は石田三成いしだみつなりと対立して関ヶ原せきがはらで東軍に付き、肥後ひご国主として難攻不落の熊本城を完成させた人物でもあります。「清正公せいしょうこうさん」として今も民間信仰の対象となっている、稀有な戦国武将のひとりです。

3行でわかる加藤清正かとうきよまさ

  • 秀吉ひでよしの縁戚として幼少から仕え、賤ヶ岳しずがたけの戦いで「七本槍の筆頭」として頭角を現した武将
  • 文禄・慶長の役ぶんろく・けいちょうのえきで朝鮮へ出兵し、「虎退治」の逸話で知られるようになった(ただし多くは後世の創作)
  • 肥後ひご国主として熊本城を完成させ、今も「清正公せいしょうこうさん」として民間信仰の対象になっている

基本プロフィール

生年天文てんぶん11年(1562年)
没年慶長けいちょう16年(1611年)
出身尾張おわり国愛知郡(現・愛知県名古屋市)
主君豊臣秀吉とよとみひでよし
官位肥後ひご
主な役職肥後ひご国主(熊本藩初代藩主)
家紋蛇の目

豊臣秀吉とよとみひでよしへの仕官と生い立ち

加藤清正かとうきよまさは、天文てんぶん11年(1562年)に尾張おわり国で生まれました。母の方が豊臣秀吉とよとみひでよしの縁戚(母の従兄弟という説など、諸説あり)にあたるため、清正きよまさは幼少のころから秀吉ひでよしに仕えることになりました。秀吉ひでよしが信長の家臣として頭角を現していく過程で、清正きよまさも小姓として近くに仕え、戦場での経験を積んでいきます。

若い清正きよまさ秀吉ひでよしの下で武士としての基礎を身につけ、天正てんしょう期(1573〜1592年)には秀吉ひでよしの各地への出兵に従軍しました。やがて賤ヶ岳しずがたけの戦いで、その名が広く知られることになります。

賤ヶ岳しずがたけの戦いと七本槍

天正てんしょう11年(1583年)、本能寺の変ほんのうじのへん後の後継者争いで、羽柴秀吉ひでよし柴田勝家しばたかついえが対立した賤ヶ岳しずがたけの戦いが起きます。清正きよまさはこの戦いで秀吉ひでよし方として活躍し、「賤ヶ岳しずがたけ七本槍」のひとりに数えられました。

七本槍とは、賤ヶ岳しずがたけの戦いで特に武功を立てたとされる7人の武将を指す呼称です(清正きよまさのほか、福島正則ふくしままさのり加藤嘉明かとうよしあき平野長泰ひらのながやす糟屋武則かすやたけのり脇坂安治わきざかやすはる片桐且元かたぎりかつもと)。この活躍によって清正きよまさ秀吉ひでよしからの信頼を深め、その後の出世の足がかりとなりました。ただし「七本槍」という呼称自体も、後世に整理・強調されたイメージが含まれており、当時からそう呼ばれていたわけではないとされています。

文禄・慶長の役ぶんろく・けいちょうのえきでの活躍

文禄ぶんろく元年(1592年)、豊臣秀吉とよとみひでよしは大規模な朝鮮出兵(文禄の役ぶんろくのえき)を断行します。清正きよまさはこの出兵で先鋒のひとりとして朝鮮半島に上陸し、北方へ積極的に進軍しました。朝鮮半島北部まで達したとも伝えられますが、明軍の介入と補給難により戦局は膠着し、最終的に撤退することになります。

慶長けいちょう2年(1597年)には再び朝鮮へ出兵(慶長の役けいちょうのえき)。この戦役でも清正きよまさは戦場に立ちましたが、戦況は厳しく、翌年の秀吉ひでよしの死によって日本軍は撤退しました。朝鮮での清正きよまさの行動については、史料によって評価が大きく異なります。積極的な進軍を称える記録がある一方、地元の記録では苛烈な扱いが記されているものもあります。一面的な評価は難しい問題です。

「虎退治」の逸話とその実像

加藤清正かとうきよまさといえば「虎退治」の話が有名です。朝鮮半島で清正きよまさが虎を狩ったという逸話は、江戸時代以降の絵画や講談を通じて広く知られるようになりました。

ただし注意が必要なのは、「清正きよまさが大槍を手に虎に立ち向かった」という具体的な場面の多くが、後世の軍記物や物語の産物であるという点です。実際に朝鮮半島に虎が生息しており、清正きよまさが虎狩りに関与した可能性は否定されていませんが、描かれたような劇的な場面が史実かどうかは確認できません。「虎退治の清正きよまさ」は、民間のイメージが独り歩きした部分が大きいと考えられています。

石田三成いしだみつなりとの対立と関ヶ原せきがはら

秀吉ひでよしの晩年、加藤清正かとうきよまさ石田三成いしだみつなりとの対立が表面化します。後世ではこれを「武断派(戦場での武功を重んじる武将)vs 文治派(行政・外交を重んじる武将)の対立」として整理することがありますが、実態はより個人的な摩擦や利害の衝突が複雑に絡み合っていたと考えられています。武断派・文治派という区分は、後世の研究者や教科書がわかりやすく整理したものという側面があります。

慶長けいちょう5年(1600年)の関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいでは、清正きよまさは東軍(徳川家康とくがわいえやす側)に付きました。清正きよまさは九州にあって、西軍に属した小西行長こにしゆきなが肥後ひご国内でかねてからの競合相手)の領地に攻め込む形で参戦しました。関ヶ原せきがはら本戦の後、清正きよまさは西軍に参加した大名の一人を攻め落とし、戦後の恩賞として肥後ひご一国の支配を確立します。

肥後ひご国主として・熊本城の完成

関ヶ原せきがはら後に肥後ひごの支配を固めた清正きよまさは、国主として治国に力を注ぎました。特に有名なのが熊本城の完成です。慶長けいちょう12年(1607年)ごろに完成したとされる熊本城は、清正きよまさが築城技術と地形を活かして設計した堅牢な城郭として知られています。

熊本城の特徴として挙げられるのが「武者返し」と呼ばれる石垣の設計です。下部は緩やかな傾斜で上部に向かって急になる「扇の勾配」と呼ばれる構造が、外敵の登攀を困難にするとされます。また、籠城時の食料として芋茎(ずいき)をあらかじめ乾燥させて縄に使ったという逸話も有名ですが、これも後世に誇張された部分があります。清正きよまさが優れた築城技術と実用的な発想を持っていたことは確かです。

また清正きよまさは、加藤家の領国内での治水工事にも力を入れており、熊本平野の農業開発に貢献したとされています。

晩年と死・「清正公せいしょうこうさん」信仰

慶長けいちょう16年(1611年)、清正きよまさ徳川家康とくがわいえやす豊臣秀頼とよとみひでよりの会見(二条城会見)に尽力した直後に急死しました。享年は49歳(数え年50歳)。その急死については「毒殺された」という説が後世に生まれましたが、確かな根拠はなく、過労や病気による死であった可能性が高いとされています。

清正きよまさの死後、彼は熊本で「清正公せいしょうこうさん」(せいしょうこうさん)として慕われ、民間信仰の対象となりました。現在でも熊本市内には清正きよまさを祀った神社や廟所が残り、地域の人々に親しまれています。これほど地域に根づいた信仰を持つ戦国武将は珍しく、清正きよまさの施政や人柄が民衆に評価された証といえます。

加藤清正かとうきよまさ 年表

天文てんぶん11年(1562年)尾張おわり国で生まれる。幼少より豊臣秀吉とよとみひでよしに仕える
天正てんしょう11年(1583年)賤ヶ岳しずがたけの戦いで活躍。「七本槍の筆頭」として名を上げる
天正てんしょう15年(1587年)九州征伐きゅうしゅうせいばつに参加。肥後ひご国の半国を与えられる
文禄ぶんろく元年(1592年)文禄の役ぶんろくのえきで朝鮮出兵。北方まで進軍
慶長けいちょう2年(1597年)慶長の役けいちょうのえきで再び朝鮮出兵
慶長けいちょう3年(1598年)豊臣秀吉とよとみひでよしの死により日本軍撤退
慶長けいちょう5年(1600年)関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいで東軍に参加。戦後、肥後ひご一国の支配を確立
慶長けいちょう12年(1607年)ごろ熊本城が完成
慶長けいちょう16年(1611年)急死。享年49歳(数え年)

まとめ

加藤清正かとうきよまさは、豊臣秀吉とよとみひでよしの縁戚として幼少から仕え、賤ヶ岳しずがたけの戦いで七本槍の筆頭と称された武将です。文禄・慶長の役ぶんろく・けいちょうのえきでは朝鮮へ出兵し、「虎退治」の逸話で有名になりましたが、その多くは後世に形成されたイメージです。石田三成いしだみつなりとの対立、関ヶ原せきがはらでの東軍参加を経て、肥後ひご国主として難攻不落の熊本城を完成させました。今も「清正公せいしょうこうさん」として親しまれる清正きよまさは、武将としての武功だけでなく、築城・治水に優れた国主でもありました。

参考資料

小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年。
小和田哲男監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年。


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