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賤ヶ岳の戦いとは?秀吉が柴田勝家を破り覇権を固めた理由

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1583年(天正てんしょう11年)、羽柴秀吉はしばひでよし(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家しばたかついえ近江おうみ(現在の滋賀県)の賤ヶ岳しずがたけで激突しました。本能寺ほんのうじの変(1582年)で織田信長が死んだ後、「誰が織田家の後継者か」をめぐる内部抗争の決着戦であり、山崎やまざきの戦いで明智光秀を倒した秀吉が勝利し天下人への道を前進させたとされています。戦国時代の覇権を決めた重大な合戦です。

3行でわかる賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかい

・1583年4〜5月、本能寺ほんのうじの変後の織田家後継者争いで秀吉と柴田勝家しばたかついえが激突
前田利家まえだとしいえの撤退が勝敗を決し、秀吉方が圧勝。柴田勝家しばたかついえ北ノ庄城きたのしょうじょうで自害
・この勝利で秀吉が織田家中の主導権を完全に握り、天下統一への実権を手に入れた


目次

賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいとは何か

賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいは、1583年(天正てんしょう11年)4月〜5月に、近江おうみ国(現在の滋賀県)の賤ヶ岳しずがたけ(標高421m、余呉湖よごこの南)付近で起きた羽柴秀吉はしばひでよし柴田勝家しばたかついえの戦いです。直接の戦闘は4月20日前後から5月初旬までの短期間ですが、その前に数ヶ月の政治工作と対陣が続いており、後継者争いの本番は「戦場」より「外交・謀略・調略」の場にあったとも言えます。


時代背景|清洲会議きよすかいぎ勝家かついえ・秀吉の対立

1582年6月の本能寺ほんのうじの変の直後、織田家の重臣たちは「清洲会議きよすかいぎ」(尾張おわり・清洲城)を開き後継者と領地の分配を協議し、秀吉が推した信長の孫・三法師さんぼうしが後継者として採用されます。信長の重臣筆頭だった柴田勝家しばたかついえは三男・信孝のぶたかを推しており、主導権を奪われた勝家かついえ信孝のぶたか織田信包おだのぶかね滝川一益たきがわかずますらと結んで秀吉打倒を図り、「秀吉vs勝家かついえ」という織田家内の最終決戦が不可避となりました。

戦いまでの流れ表

段階出来事意味
本能寺ほんのうじの変(1582年)織田信長が死去後継者問題が発生
山崎やまざきの戦い秀吉が明智光秀を討つ秀吉が発言力を強める
清洲会議きよすかいぎ秀吉が三法師さんぼうし擁立に成功勝家かついえ信孝のぶたかを推し対立
秀吉と勝家かついえの対立両者が対陣・調略戦を展開主導権争いが先鋭化
賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかい(1583年)秀吉方が勝利勝家かついえは自害
秀吉の主導権拡大織田家中の実権を握る天下統一への足場を固める

賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいの流れ

基本情報表

項目内容
時期1583年4月〜5月(前哨戦は1582年11月〜)
場所近江おうみ国・賤ヶ岳しずがたけ(現在の滋賀県)
戦った勢力羽柴秀吉はしばひでよし vs 柴田勝家しばたかついえ
主な人物羽柴秀吉はしばひでよし柴田勝家しばたかついえ前田利家まえだとしいえ織田信孝おだのぶたか
何が起きたか対陣→前田利家まえだとしいえの撤退→勝家かついえ方の壊滅
結果秀吉方の勝利、勝家かついえは自害
時代への影響秀吉が織田家中の主導権を強める

【第1幕】数ヶ月の対陣と調略戦(1582年11月〜1583年4月)

1582年末から1583年初にかけて、秀吉と勝家かついえの両軍は近江おうみ越前えちぜん(現在の福井県)の境界付近で対陣します。積雪の多い越前えちぜんから動けない勝家かついえに対し、秀吉は味方の調略を積極的に進め、特に勝家かついえ方として参陣していながら秀吉と旧知の仲でもあった前田利家まえだとしいえに「勝家かついえ方として戦うより、秀吉方として生き残れ」という工作を続けました。

【第2幕】岐阜への陽動と北陸の決戦(1583年4月)

1583年4月、勝家かついえが積雪の解けた越前えちぜんから進軍を開始すると、秀吉は北陸の守りを部将に任せ自身は岐阜城(織田信孝おだのぶたか方)攻撃に向かう「陽動作戦」を展開。北陸での勝家かついえ方の攻勢(佐久間盛政さくまもりまさ大岩山砦おおいわやまとりで攻撃など)が成功しかけた矢先、秀吉は電光石火で北陸に引き返し、賤ヶ岳しずがたけ付近で盛政軍を撃破して形勢が逆転、この局面で前田利家まえだとしいえが戦場から撤退するという大きな転機が起きました。

【第3幕】前田利家まえだとしいえの撤退と勝家かついえの壊滅(1583年4月〜5月)

前田利家まえだとしいえの撤退は勝家かついえ方に壊滅的な打撃を与え、将兵の士気は崩れ次々と離脱者が出ました。柴田勝家しばたかついえ北ノ庄城きたのしょうじょう(現在の福井市)に退き、5月2日に妻のお市の方(信長の妹)とともに城に火をかけて自刃。盟友の織田信孝おだのぶたかも同月中に秀吉に降伏し自害に追い込まれ、これにより秀吉の織田家中における主導権は大きく強まりました。


関わった人物たち

対立構図整理表

人物・勢力立場読むポイント
羽柴秀吉はしばひでよし清洲会議きよすかいぎで主導権を握った側調略と陽動で勝家かついえを圧倒
柴田勝家しばたかついえ信長の筆頭重臣、信孝のぶたかを支持北ノ庄城きたのしょうじょうで自害
織田信孝おだのぶたか信長の三男、勝家かついえ敗北後に自害へ追い込まれる
前田利家まえだとしいえ勝家かついえ方として参陣も撤退この判断が戦局を左右した
賤ヶ岳しずがたけ七本槍しちほんやり秀吉方の若武者たち後の豊臣政権を支える中核に
織田家中の諸将秀吉方・勝家かついえ方に分裂戦後は秀吉方に収斂していく

柴田勝家しばたかついえ(しばたかついえ)|1522頃〜1583年

織田信長の筆頭重臣として北陸方面の平定に功績を挙げた猛将で、「鬼柴田」と呼ばれた勇猛さで知られます。信長死後、秀吉との主導権争いに敗れ、北ノ庄城きたのしょうじょうでお市の方とともに最期を遂げました。秀吉との対決は「農民出身の下剋上vs信長の正統的重臣」という構図で語られることもあります。

前田利家まえだとしいえ(まえだとしいえ)|1538〜1599年

勝家かついえ方として参陣しながら途中撤退という選択が、戦争の結末を大きく左右しました。秀吉に恩義もある利家はこの戦いで「秀吉の天下」を選び、後に「加賀百万石」の大名として豊臣政権の重鎮となり、秀吉死後は家康と並ぶ有力者となりました。

お市の方(おいちのかた)|1547頃〜1583年

織田信長の妹で、最初の夫・浅井長政(姉川あねがわの戦いで信長と対立、滅亡)の後、柴田勝家しばたかついえの妻となり、勝家かついえの最期を共にして北ノ庄城きたのしょうじょうで自害しました。3人の娘(茶々ちゃちゃ・初・江)は生き延び、茶々ちゃちゃは豊臣秀吉の側室・淀殿よどどのとして秀頼を産み、その後の大坂おおさかの陣に関わります。


賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいが変えたもの

賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいで変わったことは、「誰が信長の後継者か」という問いへの事実上の答えが出たことです。清洲会議きよすかいぎでは「三法師さんぼうし」という形式上の答えがあっただけでしたが、賤ヶ岳しずがたけの勝利によって秀吉が実質的な「天下の主」として認められるようになりました。この戦いで名を挙げた賤ヶ岳しずがたけ七本槍しちほんやり(福島正則・加藤清正・片桐且元ら)は、後に豊臣政権の中核を担っていくことになります。


現代への学び

賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいが示す教訓の一つは「勝敗を決めるのは戦場だけではない」ということです。前田利家まえだとしいえの撤退という「戦場外の決断」が実質的に戦争を終わらせ、同盟の維持や調略という「戦う前の準備」が兵力よりも結果を左右しました。また秀吉の「岐阜への陽動→北陸への電光石火の引き返し」という戦術は敵の意表をつく「予測不能の行動」の重要性を示しており、「どこにいるかわからない敵」は心理的に大きな圧力を与えるものです。

誤解されやすいポイント表

よくある見方実際には
賤ヶ岳しずがたけ七本槍しちほんやりだけで勝敗が決まった前田利家まえだとしいえの撤退など複数の要因が重なった
柴田勝家しばたかついえが単純に時代遅れだった北陸平定の実績がある有力な武将だった
秀吉の天下取りがこの時点で完全に決まった織田家中の主導権を強めた段階で、天下統一はこの後も続いた

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参考資料

賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかい(コトバンク)
賤ヶ岳しずがたけ七本槍しちほんやり(コトバンク)
・小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年。
・小和田哲男監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年。


まとめ

賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかい(1583年)は、本能寺ほんのうじの変後の織田家後継者争いで羽柴秀吉はしばひでよし柴田勝家しばたかついえが激突した合戦です。清洲会議きよすかいぎでの対立が武力衝突へ発展し、前田利家まえだとしいえの撤退という転機を経て秀吉方が圧勝、柴田勝家しばたかついえはお市の方とともに北ノ庄城きたのしょうじょうで自害しました。この勝利で秀吉の織田家中における主導権は大きく強まり、天下統一への実権を握ったとされています。お市の方の娘・茶々ちゃちゃ(後の淀殿よどどの)ら三人娘は豊臣・徳川両家に嫁ぎ、戦国後期から江戸時代初期の権力構造に深く関わっていきました。

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