蘭学とは、鎖国政策のもとでも、オランダとの交易窓口だった長崎を通じて日本に伝わった西洋の学問のことです。医学をはじめ、天文学や地理・測量といった分野にも影響を与えた実用的な学問(実学)としての有用性から、幕府にも一定程度容認されていたとされています。8代将軍・徳川吉宗による洋書輸入禁令の緩和をきっかけに発展し、後には西洋学問全般を指す「洋学」へと展開していったと伝えられています。
この記事でわかること
- 蘭学が発展したきっかけ
- 『解体新書』と『ハルマ和解』という代表的な成果
- オランダ通詞が果たした役割
- シーボルトと鳴滝塾
- 蘭学者が幕府から弾圧された事例
- 蘭学から洋学への展開
蘭学が発展したきっかけ
蘭学は、鎖国政策のもとで唯一交流のあった西洋の国・オランダを通じて入ってきた学問で、「阿蘭陀学」とも呼ばれることがあったとされています。8代将軍・徳川吉宗が、漢訳された洋書の輸入禁令を緩和したことが、18世紀後半以降の蘭学発展の大きなきっかけになったと伝えられています。この緩和を受け、野呂元丈や青木昆陽(サツマイモの研究でも知られる人物)といった学者たちが、蘭学の初期の担い手として活動したとされています。これは、オランダ語という当時の日本人にとってなじみの薄い言語を通じて、医学・天文学・地理といった西洋の実用的な知識を学ぼうとする試みだったと言えそうです。
『解体新書』と『ハルマ和解』
蘭学の代表的な成果としては、杉田玄白・前野良沢によるオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳が挙げられます。その解剖図の正確さに驚いた2人がこれを翻訳し、『解体新書』として出版したとされています。また、玄白の門人であった稲村三伯が編纂した『ハルマ和解』は、日本で初めての蘭和辞書として重要な成果だったと伝えられています。同じ時期には、エレキテル(摩擦起電器)の研究で知られる平賀源内も、蘭学の知識を取り入れながら活動した人物として紹介されています。
オランダ通詞と蘭学を支えた仕組み
蘭学の発展を支えた存在として、長崎奉行所の役人であるオランダ通詞の役割も重要だったとされています。オランダ通詞は、単なる通訳にとどまらず、外交や貿易の実務も担っていたと伝えられています。前野良沢も、師である青木昆陽とともに、長崎の通詞から蘭学を学んだとされています。こうした通詞たちが蓄積した語学力や実務経験が、後の翻訳事業や蘭学者の育成を下支えしていたと考えられます。
シーボルトと鳴滝塾
1823年(文政6年)に来日したドイツ人医師・シーボルトは、長崎郊外に鳴滝塾という私塾を開くことを許されたとされ、これは外国人の行動が厳しく制限されていた当時としては異例の待遇だったと伝えられています。鳴滝塾は、医学を中心にオランダ語や西洋の学問を体系的に教える場として機能し、鳴滝塾からは、高野長英をはじめとする優れた蘭学者が輩出されたとされています。もっとも、シーボルトは国禁である日本地図を国外に持ち出した罪で国外追放となっており(シーボルト事件)、蘭学が容認される一方で、幕府による厳しい統制の対象でもあったことがうかがえます。当時、幕府の天文方には蘭学書を扱う蕃書和解御用掛という部署も置かれていましたが、シーボルト事件では、この地図の受け渡しに関わったとされる天文方の高橋景保が獄死するという悲劇も起きたと伝えられています。鳴滝塾のような私塾は、庶民向けの寺子屋とはまた異なる、専門的な学問を教える教育の場として機能していたと考えられます。
蘭学者への弾圧(蛮社の獄)
蘭学の隆盛は、同時に幕府からの弾圧も招いたとされています。1837年(天保8年)、浦賀に来航した米国船モリソン号を幕府が砲撃したことを批判した蘭学者の高野長英と渡辺崋山が処罰されており、これは蛮社の獄と呼ばれています。一方で、高まる外国の脅威を受け、幕府は西洋式の砲術・軍事技術には関心を持ち、高島秋帆にこれを採用させたとも伝えられており、蘭学に対する幕府の姿勢は一面的なものではなかったと考えられます。容認と統制という相反する対応が同時に見られた点は、蘭学という学問の位置づけの複雑さを示していると言えそうです。
蘭学から洋学へ
蘭学は、1854年の開国以降、オランダに限らない西洋学問全般を指す「洋学」へと発展的に移行していったとされています。緒方洪庵が開いた適塾は、この転換を象徴する存在として位置づけられています。こうした蘭学から洋学への流れが、後の幕末・明治期の近代化にどの程度直接つながったかについては、本記事の内容だけで断定することは難しく、一つの背景になったと捉えるにとどめておくのがよさそうです。
まとめ
蘭学は、鎖国政策のもとでも長崎を通じてオランダから伝わった学問で、徳川吉宗による洋書輸入緩和をきっかけに、『解体新書』や『ハルマ和解』といった具体的な成果を生み出しながら発展していったと考えられています。医学だけでなく天文学や地理・測量といった分野にも影響を与え、オランダ通詞や天文方といった幕府の仕組みとも結びつきながら広がっていったとされています。シーボルトの鳴滝塾のように蘭学が容認される場面がある一方、蛮社の獄やシーボルト事件のように幕府による弾圧を受けることもあり、蘭学は容認と統制の両面を経験しながら、やがて洋学へと展開していったとされています。
参考資料
『テーマ別だから政治も文化もつかめる江戸時代』
伊藤賀一 監修/かみゆ歴史編集部 編
朝日新聞出版、2022年

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