浮世絵とは、江戸時代に発展した木版画を中心とする絵画のことで、当時の庶民に広く親しまれた大衆的な美術として知られています。歌舞伎や相撲と並ぶ江戸の文化を代表する存在である浮世絵について、その歴史やジャンル、制作のしくみを資料に基づいて紹介します。
この記事でわかること
- 浮世絵がどのように生まれ、発展していったか
- 浮世絵にはどのようなジャンルがあったか
- 浮世絵がどのようなしくみで作られていたか
浮世絵の誕生と発展
浮世絵の「浮世」という言葉は、もともと「憂き世(つらい世の中)」を意味していましたが、戦乱の時代が終わると、今を楽しむ世の中という意味合いに変化していったとされています。浮世絵の原型とされるのが、岩佐又兵衛による「洛中洛外図屏風(舟木本)」(1615年頃)で、京都の歓楽街や当時の風俗をありのままに描いた作品だったとされています。当初は肉筆による一点物の作品が中心でしたが、菱川師宣が大衆向けの小説の挿絵を手がけたことをきっかけに、木版による浮世絵版画が広がっていったと考えられています。色彩の面でも、墨一色の墨摺絵から、紅などを用いた紅摺絵を経て、鈴木春信によって多色摺りの「錦絵」が生み出され、印刷技術の発展とともに浮世絵は庶民にも手が届く身近な存在になっていったとされています。
浮世絵のジャンル
浮世絵には多様なジャンルがあり、代表的なものとして、遊女や茶屋の娘などを描いた「美人画」、歌舞伎役者を描いた「役者絵」、名所や風景を描いた「風景画」などが挙げられます。喜多川歌麿は美人画の中でも上半身を大きく描く「大首絵」という新しい構図で人気を集めたとされ、東洲斎写楽は、役者の顔の特徴を誇張して描くなど個性的な役者絵で知られていますが、わずか10か月ほどの間に134点ほどの作品を残した後、忽然と姿を消したことから、その正体は今も謎とされています。近年の研究では阿波徳島藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛が有力な候補として挙げられていますが、これはあくまで最有力視されている説の一つであり、確定した事実ではないとされています。葛飾北斎や歌川広重らによる風景画は、当時の旅行ブームとも結びつき、大きな人気を博したと考えられています。浮世絵は美人画がファッション誌、風景画が旅行ガイド、役者絵が役者の宣伝写真のような役割を果たしていたともいわれ、当時の情報媒体としての側面も持っていたとされています。
浮世絵ができるまで
錦絵の制作には、下絵を描く「絵師」、その下絵をもとに版木を彫る「彫師」、版木を用いて紙に色を摺り重ねる「摺師」という、専門の異なる職人たちの分業が必要だったとされています。これらの職人をまとめ、市場に流通させる役割を担ったのが「版元」と呼ばれる業者で、中でも蔦屋重三郎は喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した名プロデューサーとして知られています。標準的な大判の浮世絵1枚の値段はおよそ24文程度だったとされ、手頃な値段と持ち運びやすさから、江戸みやげとしても親しまれていたと考えられています。標準的な判型は「大判」と呼ばれ、およそ縦39cm×横26cm程度の大きさで、ほかにも複数枚をつなげた「三枚続」や、縦長の「短冊判」といった判型もあったとされています。幕末期には浮世絵がヨーロッパにも伝わり、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームのきっかけの一つになったとも考えられています。
葛飾北斎という絵師
浮世絵を代表する絵師の一人が、葛飾北斎です。代表作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は、荒波にもまれる小舟を描いた作品で、現代の高速度カメラで撮影した波の形と似ていることが指摘されるなど、その観察眼の鋭さは現代でも高く評価されていますが、これは科学的な波の分析にもとづくものではなく、あくまで卓越した観察力によるものと考えられています。北斎は生涯にわたって新しい表現を追求し続け、絵手本「北斎漫画」や、晩年の肉筆画「西瓜図」など、幅広い作品を残しました。90歳で亡くなるまで絵筆を握り続けたと伝えられています。
まとめ
浮世絵は、戦乱の時代が終わり「今を楽しむ」という価値観のもとで生まれ、木版印刷の発展とともに庶民に広く親しまれる大衆文化へと発展していったと考えられます。美人画・役者絵・風景画といった多様なジャンル、絵師・彫師・摺師・版元による分業のしくみ、そして葛飾北斎をはじめとする絵師たちの個性からは、江戸時代の豊かな視覚文化の一端がうかがえます。
参考資料
『テーマ別だから政治も文化もつかめる江戸時代』(第4章)

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