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今川氏真とは?名門今川家を失った後継者の生涯をわかりやすく解説

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今川氏真いまがわうじざねは、戦国時代に東海地方を支配した今川義元いまがわよしもとの嫡男です。父・義元よしもと桶狭間の戦いおけはざまのたたかいで討死したあとに家督を継ぎましたが、徳川家康とくがわいえやすの独立、武田信玄たけだしんげん駿河するが侵攻などが重なり、今川家の領国を失いました。

「無能な後継者」と語られることの多い人物ですが、その評価は後世によるものです。急死した義元よしもとの後を継いだ若き当主が、三方向からの圧迫にどう向き合ったのか。また、領国を失ったあとも江戸時代まで生き延びた氏真うじざねの実像を、わかりやすく解説します。

3行でわかる今川氏真いまがわうじざね

  • 今川義元いまがわよしもとの嫡男として生まれ、桶狭間の戦いおけはざまのたたかい(1560年)後に家督を継いだ
  • 徳川家康とくがわいえやすの独立・武田信玄たけだしんげん駿河するが侵攻が重なり、今川家の領国を失った
  • 武将としての評価は低いが、文化人として江戸時代まで生き抜いた

基本プロフィール

項目内容
生年1538年(天文7年)
没年1614年(慶長19年)
享年76〜77歳
出身駿河するが(現在の静岡県)
今川義元いまがわよしもと
主な活動時期1560〜1580年代
特技蹴鞠けまり・和歌・連歌

今川義元いまがわよしもとの嫡男として生まれる

今川氏真いまがわうじざねは1538年、今川義元いまがわよしもとの嫡男として生まれました。

今川家は、足利将軍家の一族(清和源氏・足利氏庶流)にあたる名門です。義元よしもとの時代には、三河みかわ遠江とおとうみ駿河するがの三国を支配し、「海道一の弓取り」と呼ばれるほどの実力を誇っていました。また、武田信玄たけだしんげん北条氏康ほうじょううじやすとの甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい(1554年)で背後を固め、上洛(京都への進出)を目指していました。

氏真うじざねは、この今川家の全盛期に育ちました。蹴鞠けまり・和歌・連歌を好む文化人としての素養を身につけ、父の後継者として育てられます。

桶狭間の戦いおけはざまのたたかい後、家督を継ぐ(1560年)

1560年、今川義元いまがわよしもとは大軍を率いて上洛に向かいましたが、桶狭間の戦いおけはざまのたたかいで織田信長に奇襲され、討死しました。

義元よしもとの急死は、今川家にとって想定外の出来事でした。当主が戦場で討たれるという前例のない事態に、家臣団は動揺します。氏真うじざねは父の死を受け、当時22〜23歳で家督を継ぎました。

しかし、義元よしもとのカリスマと実力で維持されていた今川家の支配は、その死後、急速に揺らぎ始めます。

徳川家康とくがわいえやすの独立と家臣の離反

桶狭間の戦いおけはざまのたたかい義元よしもとが討死すると、今川家に人質として抑えられていた松平元康まつだいらもとやす(のちの徳川家康とくがわいえやす)が、今川家から独立する動きを見せ始めます。

1562年には家康いえやすが織田信長と同盟(清洲同盟きよすどうめい)を結び、今川家への対抗姿勢を鮮明にしました。さらに、1563〜1564年の三河一向一揆みかわいっこういっきが起きると、家康いえやすはこれを制圧し、三河みかわの支配を確立します。

今川家は三河みかわの実効支配を失い、遠江とおとうみ駿河するがの二国に縮小を余儀なくされました。同時期、遠江とおとうみの国人衆(地方武士)の離反も相次ぎ、今川家の家臣団は弱体化していきます。

武田信玄たけだしんげん駿河するが侵攻(1568年)

今川家にとって決定的な打撃となったのが、1568年の武田信玄たけだしんげんによる駿河するが侵攻です。

甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいの一角を担っていた武田信玄たけだしんげんが、同盟を破棄して今川家の本国・駿河するがに侵攻しました。この背景には、義元よしもと亡き後の今川家の弱体化と、信玄しんげんの上洛への野望がありました。

今川氏真いまがわうじざねは、北条氏(後北条氏)に援軍を求めて抵抗を試みましたが、力及ばず、1568〜1569年にかけて駿河するがの大部分を失います。

北条家への亡命と流浪

領国をほぼ失った今川氏真いまがわうじざねは、北条家(後北条氏)を頼って相模さがみ(現在の神奈川県)へ逃れました。

しかし北条家も1571年に当主・北条氏康ほうじょううじやすが死去すると、今川氏真いまがわうじざねの立場は不安定になります。その後、氏真うじざねは各地を転々とし、かつての家臣たちが武田や徳川に吸収されていく中で、かつての今川家の領国は完全に消滅しました。

氏真うじざねは本当に無能だったのか

今川氏真いまがわうじざねは後世に「無能な後継者」として語られることが多い人物です。しかしその評価は、近年見直されています。

氏真うじざねを「無能」とするのは適切ではないという指摘の根拠は以下の通りです。

  • 桶狭間おけはざまでの義元よしもとの急死は、誰にとっても対処困難な不測の事態だった
  • 徳川・武田・北条という三方向からの圧迫は、当時の今川家には過大な負担だった
  • 氏真うじざね自身の失策よりも、義元よしもと急死による求心力の喪失と家臣団の動揺が主因
  • 外交・文化面での能力は評価されている

また、氏真うじざねが文化人として際立った才能を持っていたことも知られています。蹴鞠けまり・和歌・連歌に秀でており、後世の記録には徳川家康とくがわいえやすの前で蹴鞠けまりを披露したという逸話が残っています(ただしこれらの逸話の史料的信頼性には検証が必要です)。

江戸時代まで生き抜いた今川氏真いまがわうじざね

氏真うじざねは、豊臣秀吉の天下統一後、かつての敵だった徳川家康とくがわいえやすの庇護を受けて生き延びました。

これは単なる「情け」ではなく、家康いえやすにとって今川家の名門としての格を利用する意義があったとも考えられています。氏真うじざねは1614年に死去し、その子孫は江戸幕府の旗本今川家として幕末まで続きます。

戦国の荒波の中で領国を失いながらも、76〜77歳まで生き抜いたこと自体、氏真うじざねの人物の強さを示しています。

年表

出来事
1538年今川義元いまがわよしもとの嫡男として誕生
1554年甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい(武田・北条・今川)成立
1560年桶狭間の戦いおけはざまのたたかい義元よしもと討死 → 家督継承
1562年徳川家康とくがわいえやす清洲同盟きよすどうめい(織田と同盟)→ 今川家から独立
1563〜64年三河一向一揆みかわいっこういっき家康いえやすが鎮圧・三河みかわを掌握
1568年武田信玄たけだしんげん駿河するが侵攻 → 今川領国の喪失
1569〜71年北条家へ亡命・流浪
1587年以降豊臣政権下、徳川家康とくがわいえやすの庇護を受ける
1614年死去(享年76〜77歳)

まとめ

今川氏真いまがわうじざねは、父・義元よしもとの急死という不測の事態に対応しながら、今川家を守ろうとした武将です。徳川家康とくがわいえやすの離反・武田信玄たけだしんげんの侵攻・家臣団の動揺という三重の苦境は、誰が当主であっても乗り越えることは容易ではなかったでしょう。

「無能な後継者」という評価は単純すぎます。時代の転換の中で今川家がどう揺らいだかを複合的に見ることで、氏真うじざねの実像に近づくことができます。また、文化人として江戸時代まで生き延びた氏真うじざねの生き方は、戦国時代の「敗者」の一つの形を示しています。

参考資料

  • 小和田哲男 監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年
  • 今川氏真いまがわうじざね(コトバンク)
  • 桶狭間の戦いおけはざまのたたかい(コトバンク)

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