1333年、鎌倉幕府は滅びました。
しかし、その後に始まった「建武政権」もまた、長くは続きませんでした。
新しい政権を揺るがしたのが、竹ノ下の戦いです。
1335年(建武2年)、足利尊氏と新田義貞が激突したこの一戦は、
建武政権の崩壊と、南北朝時代の幕開けに直結した出来事でした。
竹ノ下の戦いは「鎌倉幕府を倒した戦い」ではありません。
幕府がすでに滅んだ後の、次の時代をめぐる戦いです。
竹ノ下の戦いとは何だったのか
竹ノ下の戦いとは、
1335年(建武2年)12月、駿河国竹ノ下(現・静岡県御殿場市付近)で起きた戦いです。
戦ったのは、
・足利尊氏・足利直義兄弟の軍
・後醍醐天皇の命を受けた新田義貞の軍
結果は足利軍の圧勝。新田義貞は大敗して京都へ退き、
尊氏はそのまま京都へ進軍することになります。
なぜこの戦いが起きたのか|建武政権の亀裂
1333年に鎌倉幕府が倒れると、後醍醐天皇は「建武の新政」を打ち出しました。
天皇が政治を直接行う、公家中心の体制です。
しかし、武士たちへの論功行賞は不公平だと不満が広がり、
足利尊氏も次第に後醍醐天皇と距離を置くようになっていきました。
そこに起きたのが、中先代の乱(1335年)です。
北条氏の残党・北条時行が鎌倉を一時奪還するという事件でした。
足利尊氏は天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かい、乱を鎮圧。
そのまま鎌倉に留まり、独自に恩賞を配り始めます。
後醍醐天皇はこれを反逆と断じ、
新田義貞に尊氏討伐を命じました。
こうして両軍が東海道の竹ノ下で激突することになったのです。
戦いの結果と影響
竹ノ下の戦いは、足利尊氏軍の決定的な勝利で終わりました。
新田義貞が敗走すると、尊氏は一気に京都へ進軍。
後醍醐天皇は比叡山へ逃れることを余儀なくされました。
建武政権は事実上、崩壊へ向かいます。
そして1336年、足利尊氏は京都を制圧し、
後醍醐天皇は吉野へと落ち延びて「南朝」を開きます。
ここに、南北朝時代が始まります。
竹ノ下の戦いの歴史的位置づけ
- 鎌倉幕府滅亡後(1333年以降)の出来事
- 建武政権期(1333〜1336年)に起きた内部対立の決着点
- 南北朝時代(1336〜1392年)への直接的な引き金
竹ノ下の戦いは、「鎌倉時代」ではなく「建武政権から南北朝へ」という流れの中の出来事です。
鎌倉幕府の滅亡そのものを決定づけた戦いとは、切り離して理解することが重要です。
建武政権から南北朝へ──時代の流れ
- 1333年 鎌倉幕府滅亡・建武政権成立
- 1335年 中先代の乱/足利尊氏が無断で鎌倉へ
- 1335年12月 竹ノ下の戦い(尊氏軍 vs 新田義貞軍)→ 尊氏の勝利
- 1336年 建武政権崩壊・足利尊氏が京都を制圧
- 1336年 後醍醐天皇が吉野へ→南北朝時代の始まり
ひこまる竹ノ下の戦いって、鎌倉幕府が滅んだ戦いじゃないの?



違うのじゃ。鎌倉幕府はもう1333年に滅んでおる。竹ノ下の戦いは1335年、建武政権の時代に起きた戦いじゃよ。



じゃあ、誰と誰が戦ったの?



足利尊氏と新田義貞じゃ。後醍醐天皇が「尊氏を討て」と義貞に命じたが、義貞が大敗した。これが南北朝の動乱の引き金になったのじゃよ。
まとめ|竹ノ下の戦いは南北朝時代への扉を開いた
竹ノ下の戦いは、1335年(建武2年)、建武政権期に起きた戦いです。
足利尊氏が新田義貞の軍を破ったことで、建武政権は崩壊へ向かい、
日本は南北朝時代という動乱の時代に突入していきます。
この戦いの意味は、鎌倉時代の終わりではなく、
南北朝時代の始まりにこそあります。
参考資料
- 五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』吉川弘文館
- 佐藤進一『南北朝の動乱』中央公論新社
- 岡野友彦『足利尊氏』ミネルヴァ書房


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