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江戸の旅と名所めぐりとは?江戸時代の観光と移動をわかりやすく解説

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江戸の旅と名所めぐりとは、江戸時代に整備された街道や宿場町のしくみと、庶民の間に広まった旅の文化のことです。関所や街道の整備、宿場町での宿泊、伊勢参りなどの信仰の旅について、資料に基づいて紹介します。

目次

この記事でわかること

  • 江戸時代にどのような街道が整備されていたか
  • 宿場町にはどのような施設があったか
  • 庶民はどのような旅をしていたか

五街道と宿場町

江戸幕府は、豊臣秀吉による全国的な交通整備事業を引き継ぐ形で、日本橋を起点として東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中という「五街道」を整備しました。中でも東海道には53の宿駅(宿場町)が置かれ、幕府の公用交通を支える役割を担っていたとされています。宿場はおおむね1里(約4km)ごとに設けられ、道標も整備されていたとされています。海上輸送では、河村瑞賢による東廻り航路・西廻り航路の整備や、角倉了以による運河開削も進められ、陸路と水路の両面から全国の物流網が形づくられていったと考えられます。

関所と手形

街道には「関所」が設けられ、幕府や藩の許可なく人や武器が行き来することを防ぐ役割を果たしていたとされています。関所を通過するには「関所手形」(身元を証明する手形)と「往来手形」(旅の目的を証明する手形)という2種類の手形が必要だったとされ、旅は誰もが自由に行えたわけではなく、一定の手続きを経る必要があったことがうかがえます。

宿場町の施設

宿場町には、大名や幕府の要人が宿泊する「本陣」(不足時には「脇本陣」も使用)、庶民が利用する「旅籠」(東海道全体でおよそ3,000軒あったとされる)、自炊形式で宿泊する「木賃宿」など、身分や目的に応じた宿泊施設がそろっていました。人や馬の継ぎ立てを行う「問屋場」、荷物や旅人を運ぶ「馬子」(近隣の馬子同士で協力しながら働いていたとされる)、橋のない大きな川を渡るための「川渡し」(川越人足による渡河)なども、宿場町を支えるしくみとして整備されていたとされています。宿場町の入り口付近には、幕府や藩の法令を掲示する「高札」も設けられていたとされています。なお、旅籠の中には「飯盛女」と呼ばれる女性が給仕や客引きを兼ねて働く例もあったとされ、こうした女性の労働環境については、吉原などの遊里と同様に、当時の社会構造を踏まえた慎重な理解が必要と考えられます。

飛脚と旅の持ち物

手紙や小荷物を運ぶ「飛脚」は、徒歩やリレー形式の騎馬によって江戸・大坂間をおよそ3日で届けることもできたとされ、料金は仕立便で銀700匁程度(現代の価値でおよそ70万円相当と伝えられる)、並便であれば銀3分から15匁程度(同数百円〜1万5千円程度)だったと伝えられています。旅人は、菅笠・道中着・脚絆・わらじといった服装に加え、火打ち・矢立・提灯・印籠・財布などを携行していたとされ、当時の旅の装いがうかがえます。

伊勢参りと富士講

「一生に一度は伊勢参り」という言葉があるように、伊勢神宮への参拝は江戸庶民にとって特別な意味を持つ旅だったとされています。「伊勢講」と呼ばれる講(積立組織)を作り、代表者が参拝に赴く仕組みも広まっていたとされ、伊勢の御師(おんし)が全国を巡って暦や札を配ることもあったとされています。奉公人などが主人に無断で参拝に出る「抜け参り」や、飼い主に代わって参拝する「おかげ犬」といった風習も伝えられています。伊勢参りの往復にかかった費用は、宿泊費・食事代・人馬や川越の費用などを含めて13,200文程度だったとされています。最盛期には年間400万人ほどが参拝したという伝承的な数値も残っていますが、これはあくまで言い伝えに基づくものであり、確定した史実として扱われているわけではない点に注意が必要です。富士山への参拝を目的とした「富士講」も同様に広まっていましたが、富士山そのものは女人禁制とされ、女性は「富士塚」と呼ばれる模した塚に参拝することが多かったとされています。

まとめ

江戸の旅と名所めぐりは、五街道や宿場町という整備されたインフラ、関所・手形による管理のしくみ、そして伊勢参りに代表される信仰の旅という複数の要素から成り立っていたと考えられます。旅は庶民にとって次第に身近なものになっていった一方で、関所手形などの手続きが必要だったことから、「誰もが自由に旅ができた」と単純化することはできません。

参考資料

『テーマ別だから政治も文化もつかめる江戸時代』(第2章・第5章)

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