徳川綱吉とは、江戸幕府の5代将軍で、生類憐みの令や学問の奨励などの政策で知られる人物とされています。
「生類憐みの令の将軍」として語られることが多いですが、綱吉の治世は、力を背景とした政治から法や秩序を重んじる政治への転換期にあたるとも考えられています。
この記事でわかること
- 徳川綱吉の基本
- 綱吉が将軍になった時代背景
- 生類憐みの令とはどのような政策か
- 学問を重んじた政治
- 元禄文化とのつながり
- 綱吉への評価をめぐる見方
徳川綱吉とは
徳川綱吉は、江戸幕府4代将軍徳川家綱の弟にあたり、家綱の跡を継いで5代将軍になった人物とされています(在職1680〜1709年)。
綱吉の治世では、堀田正俊や柳沢吉保らが幕政の中心を担ったと考えられています。
なぜ重要なのか
綱吉の時代は、江戸時代初期の力を背景とした政治(武断政治)から、法や秩序を重んじる政治(文治政治)へと転換していく過程の中心に位置づけられているとされています。この転換は、のちに元禄文化が花開く土台になったと考えられています。
時代背景
綱吉の前の4代将軍徳川家綱の時代には、末期養子の禁の緩和や殉死の禁止など、大名を統制しつつも力づくの支配をやわらげる政策が進められたとされています。背景には、跡継ぎのいない大名家の取りつぶしに反発した牢人が起こしたとされる由井正雪の乱(慶安の変)があったといわれています。
また、1657年の明暦の大火では江戸の多くが焼失し、その後の都市のあり方にも影響を与えたと考えられています。
どのような人物だったのか
綱吉の政策としてよく知られているのが、生類憐みの令です。生き物の殺生や虐待を禁じるもので、捨て子や病人の保護につながる面があったとされる一方、行き過ぎた取り締まりが人々の生活を苦しめたという見方もあります。
近年では、こうした厳しい統制を、中世以来の力にものを言わせる価値観からの転換をはかったものと捉える見方も示されています。生類憐みの令をめぐっては「悪法」として語られることが多い一方で、こうした再評価の視点もあり、一面的な評価は避けたほうがよいとされています。
あわせて服忌令(喪に服す期間などを定めた法令)も出され、武家諸法度の内容も「弓馬の道」よりも「忠孝」「礼儀」を重んじる方向に改められたと伝えられています。
こうした忠孝を重んじる風潮の中、1701年には江戸城松之廊下で赤穂藩主・浅野長矩が吉良義央に斬りつける事件が起こり、翌年には大石内蔵助ら赤穂浪士による討ち入りに発展しました(赤穂事件)。幕府は浪士たちの忠義を認めつつも法の順守を優先し切腹を命じたとされ、忠義と法秩序のどちらを重んじるかという当時の政治風潮を映す出来事として位置づけられています。
学問の面では、湯島聖堂を設立して儒学・朱子学を幕府の公認する学問(官学)としたほか、渋川春海(安井算哲)を天文方に登用し、貞享暦を実施させたとされています。
江戸時代全体の中での意味
綱吉の時代に進んだ文治政治と学問の奨励は、経済発展とも重なって元禄文化(松尾芭蕉の俳諧、井原西鶴の浮世草子、近松門左衛門の浄瑠璃・歌舞伎脚本など)が花開く背景になったと考えられています。
一方で、貨幣の質を落として発行量を増やす元禄小判の発行など、財政面での課題も残したとされ、綱吉の治世は江戸時代の政治・文化両面の転換点として位置づけることができます。
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参考資料
- 国史大辞典「徳川綱吉」「生類憐みの令」
- 日本大百科全書「徳川綱吉」「生類憐みの令」
- 『テーマ別だから政治も文化もつかめる江戸時代』

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