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室町後期の将軍たち|足利義材・義澄・義晴・義輝・義栄、戦国時代へ向かう5代を解説

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室町幕府の将軍は、初代・足利尊氏から数えて全15代います。前期で活躍した足利義満や足利義持に比べると、10代将軍の足利義材(義尹・義稙)から14代将軍の足利義栄までの5人は、これまで専用の記事がなく、足利将軍一覧でも名前だけの紹介にとどまっていました。この記事では、この5人がどのような生涯を送り、室町幕府の権威がどのように失われていったのかを、まとめて解説します。

目次

なぜこの5人は「名前だけ」で終わっていたのか

室町幕府の権威が大きく揺らぐきっかけとなったのが、1493年の明応の政変です。管領・細川政元が将軍を強引にすげ替えたこの事件以降、将軍は細川氏や、のちにはその家臣である三好氏に擁立されたり追放されたりする存在になっていきました。10代から14代までの5人の将軍は、まさに「将軍の権威が実力者に奪われていく時代」を体現する人物たちです。

10代将軍 足利義材(義尹・義稙)|二度将軍になった「流れ公方」

足利義材は、9代将軍・足利義尚が急死したあと、父の足利義視と日野富子の意向で将軍に就任しました。在位は1490年から1495年ごろまでで、自ら兵を率いて六角氏を征伐するなど、将軍としての実権を持とうとした人物だったとされています。

ところが1493年、管領・細川政元と日野富子らによって将軍の地位を奪われ、幽閉されてしまいます(明応の政変)。そこを脱出した義材は「義尹」と改名し、西国の有力大名・大内義興のもとに身を寄せました。1508年、大内義興とともに上洛を果たし、将軍に復帰。このとき「義稙」とさらに改名しています。

復帰後も管領・細川高国と対立し、最後は京を出て阿波(現在の徳島県)で生涯を終えたとされています(没年は諸説あります)。一度将軍を追われながらも復帰を果たしたことから、のちに「流れ公方」「島公方」と呼ばれるようになりました。

11代将軍 足利義澄|管領に擁立された将軍

足利義澄は、堀越公方・足利政知の子です。明応の政変で義材を追い落とした細川政元によって、義材に代わる将軍として擁立されました。就任時はわずか14歳ほどで、実際の政務は細川政元と政所執事の伊勢貞宗が握っていたといわれています。

1502年に細川政元と対立して一時出奔し、1507年に政元が暗殺されて細川家が分裂すると、復帰を目指す義稙(義材)側の軍に対抗できず近江(現在の滋賀県)へ逃れました。最終的に将軍への復帰を果たせないまま、1511年に近江の水茎岡山城で病死したとされています。

ひこまる

お師匠、義材さんと義澄さんって、ふたりとも将軍だったんですよね?なんで同時にふたりいるんですか?

やたまる

明応の政変で将軍家が割れてしまったからじゃ。義材(義稙)の血筋と、義澄の血筋、それぞれを細川氏などの実力者が担いで対立した。将軍そのものが、実力者の旗印として使われるようになっていったんじゃぞ。

12代将軍 足利義晴|近江を逃げ回った将軍

足利義晴は義澄の子で、義稙が出奔したあとに管領・細川高国に擁立され、11歳ほどで将軍に就任しました。在位期間は1521年から1546年ごろまでと長期にわたりますが、その大半は京から逃げ出している時期でした。

1526年には細川家内部の対立に巻き込まれて近江へ逃亡。1531年に細川高国が敗死すると、対立していた細川晴元が義晴の異母弟・足利義維を将軍候補として擁立し、もう一つの将軍家(堺公方)が生まれました。義晴自身も1549年に三好長慶によって京を追われ、近江で将軍職を子の義輝に譲ったのちに病死したとされています。

13代将軍 足利義輝|剣豪将軍、永禄の変に散る

足利義輝は義晴の子です。父子で近江に逃れていた最中に将軍宣下を受けるという、京都不在のままの異例の就任でした。三好長慶との抗争と和睦を繰り返しながら1558年に帰洛し、上杉謙信や武田信玄など各地の大名の争いを調停するなど、将軍としての権威を取り戻そうと積極的に動いた人物だったとされています。

しかし、1564年に三好長慶が亡くなったのを機に将軍権力の回復を図ったことが、かえって三好義継や松永久通らの危機感を招いたといわれています。1565年、彼らが御所を襲撃する「永禄の変」が起こり、義輝は剣の達人としても知られながら、最後は討たれてしまいました。

ひこまる

義輝さんは剣の達人だったのに、家臣に討たれてしまったんですか……。将軍を取り戻そうとがんばっていたのに。

やたまる

そうじゃ。将軍が力を取り戻そうとすればするほど、それを脅威に感じる実力者が出てくる。義輝の死は、将軍という地位そのものが、もはや家臣の都合に左右される時代になったことを示しているんじゃぞ。

14代将軍 足利義栄|京に入れなかった将軍

足利義栄は、義晴の異母弟・足利義維の子です。永禄の変で義輝を討った三好義継・三好三人衆らによって、将軍候補として擁立されました。1568年に将軍宣下を受けましたが、在京する奉行衆の協力が得られないなど複数の事情が重なり、生涯一度も京に入ることができませんでした。

同じ1568年、織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁して上洛すると、義栄を支えていた勢力は阿波へ撤退し、その政権は崩壊しました。義栄自身も持病が悪化し、まもなく病死したとされています。在位わずか8カ月ほどで、室町幕府の将軍としては唯一、上洛を果たせなかった将軍です。

5人に共通すること|将軍の権威はどう失われていったか

この5人の将軍は、それぞれ事情は異なりますが、共通点があります。将軍家自身が血筋で分裂し(義材系と義澄系、義晴系と義維系)、それぞれを管領の細川氏や、その家臣にあたる三好氏という実力者が担いで対立を繰り広げました。明応の政変で管領が将軍をすげ替え、永禄の変では管領の家臣がさらに将軍を手にかけるところまで進んでいます。

将軍を立てる側が、管領家からその家臣(陪臣)へと一段ずつ下がっていく流れは、室町幕府の権力構造がじわじわと崩れ、やがて織田信長のような新興の実力者が将軍家を完全に左右する戦国時代へ移行していく力学を、先取りしていたといえます。

ひこまる

5人とも、誰かに将軍にしてもらって、誰かに追われたり討たれたりしているんですね……。将軍って、思っていたよりずっと大変な立場だったんですね。

やたまる

そうじゃな。将軍という肩書きだけでは、もう誰も従わない時代になっていたんじゃ。この5人の将軍たちの姿こそ、室町時代から戦国時代へ移っていく、まさにその境目の景色なんじゃぞ。

まとめ|室町後期の将軍たちが教えてくれること

10代・足利義材(義尹・義稙)、11代・足利義澄、12代・足利義晴、13代・足利義輝、14代・足利義栄。この5人の将軍は、いずれも将軍家の分裂と、細川氏・三好氏といった実力者の都合に振り回されながら在位した人々です。彼らの生涯をたどることで、室町幕府の権威がどのように失われ、戦国時代へと移行していったのかが、よりはっきりと見えてきます。

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