「〜にて候」「〜が如くあるべし」。
明治のはじめ、教科書も、論文も、公文書も、
日常会話とはまったく違う、書き言葉専用の文体で書かれていました。
この文語体を、話し言葉に近い口語体へと変えていく運動が、
明治の文学を大きく動かしていきます。
言文一致体の誕生
小説家の二葉亭四迷は、
劇作家・評論家の坪内逍遥による、人間の心理をえがく近代文学のあり方を論じた『小説神髄』に強い影響を受けていました。
そして1887年(明治20年)ごろ、口語体をそのまま書き言葉にした「言文一致体」の小説『浮雲』を著します。
人物の心情や会話の場面を、リアルに表現するための試みでした。
文語体で書き続けた作家たち
明治時代中期には、文語体と言文一致体(口語体)が、どちらも使われていました。
- 陸軍の軍医でもあった作家の森鷗外(森林太郎):ドイツ留学の体験をもとにした文語体の小説『舞姫』
- 樋口一葉:遊郭の少年少女を題材にした『たけくらべ』(擬古文=雅文体、やや口語体に近い文語体)
作家によって、文体の選び方はさまざまでした。
言文一致体が標準語になった理由
明治期には、官公庁や主要な教育機関、出版社、新聞社などが東京に集中していました。
結果として、言文一致体は東京の庶民の口語に近い表現となり、
これが現在も使われる標準語の母体になったといわれます。
文学作品や新聞、雑誌といった全国に流通するメディアを通じて、
口語体の標準語が広がったこと(国語の統一)は、国民の一体感を高めることにもつながりました。
1904年(明治37年)には、文部省が作成する小学校の国定教科書に、言文一致体を採用することが定められています。
明治後期の文学の多様化
言文一致体が定着した明治後期には、文学の潮流もいっそう多様になっていきます。
- 写実主義:尾崎紅葉、幸田露伴
- 自然主義:島崎藤村『破戒』、田山花袋、徳田秋声
- 浪漫主義:森鷗外『雁』
話し言葉をどう書き言葉にするか、という一つの技術的な問いから始まった運動は、
やがて、作家がそれぞれの手法で人間の内面をえがく、豊かな近代文学の土壌をつくり出していきました。
ひこまるとやたまるで理解するポイント
ひこまる言文一致体は、話した言葉をそのまま書くだけなの?



単なる書き写しではないんじゃ。読者に自然に伝わる文章をつくるため、作家たちが表現を試行錯誤したんじゃよ。



文章が変わることは、社会にも影響したの?



うむ。多くの人が読める文章が広がることは、文学だけでなく新聞や教育、考えの共有にも関わる大きな変化だったんじゃ。
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出典:大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、152〜155頁、255頁。


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